表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
99/100

99. 新世界揺籃の地

「――っ! 罠か!」


 レオンが叫んだ瞬間、階段の上方から、轟音とともに濁流が津波のように襲いかかってきた。


 茶褐色に濁った水流は、階段の幅いっぱいに広がり、容赦なく五人へと迫る。その勢いは、まるで暴れ狂う獣のようだった。


「ホーリー――」


 障壁を展開しようとしたミーシャの声が、濁流の咆哮にかき消される。


 抗う術もなく、五人は激しい水流に飲み込まれた。


 世界が、一瞬にして上下を失う。


 体が、まるで木の葉のように弄ばれ、呼吸ができない。何も見えない。ただ、冷たい水が容赦なく押し寄せ、体を、意識を、引き裂いていく――――。


 レオンは必死に手を伸ばした。誰かの手を、仲間の手を掴もうと。けれど、濁流は彼らを散り散りにしていく。指先が何かに触れた気がしたが、次の瞬間には、その感触も失われていた。


 ごめん……みんな……。


 薄れゆく意識の中で、レオンは心の中で謝罪した。


 自分が、もっと警戒していれば。もっと、仲間たちを守れていれば。


 自責の念が胸を締め付ける。


 そして、暗闇が、全てを呑み込んだ――――。



     ◇



 次にレオンが意識を取り戻した時、全身を包む冷たい感覚に、思わず呻き声を漏らした。


「……っ、う……」


 体が、水に浮いている。


 氷のように冷たい水が、全身を覆っていた。手足が思うように動かない。まるで体中に鉛を詰め込まれたような、重苦しい脱力感が全身を支配している。


 これは……毒、か……? 


 レオンは必死に思考を巡らせる。水に何か、麻痺毒のようなものが混入されているのだろう。微かに、舌先が痺れるような感覚があった。


「みん……な……」


 掠れた声で呼びかける。視界がぼやけている。目を凝らすと、自分たちが巨大な地下貯水槽のような場所にいることが分かった。


 天井は高く、石造りの壁が周囲を取り囲んでいる。薄暗い空間に、無数の魔導灯が怪しげな光を放っていた。


 そして、少し離れた場所に、仲間たちの姿が見える。


 エリナ、ミーシャ、ルナ、シエル。


 四人とも、レオンと同じように水面に浮かび、意識を失っているようだった。


「みんな……! しっかり、しろ……!」


 レオンは必死に腕を動かし、近くにいたミーシャの元へと泳ごうとする。けれど、体が思うように動かない。僅かな距離が、途方もなく遠く感じられた。


 その時だった。


 頭上から、声が降ってきた。


「あらあら、可愛い迷える子羊たち。ようこそ我が神殿へ。ふふっ」


 鈴を転がすような、美しい声。


 けれど、その声には、どこか歪んだ慈愛が滲んでいた。まるで、壊れた聖歌隊(せいかたい)が歌う賛美歌(さんびか)のような、不協和音を孕んだ優しさ。


 レオンは、必死に顔を上げた。


 貯水槽を見下ろす高い回廊に、一人の女性が立っていた。


 純白のシスター服。銀糸(ぎんし)で刺繍された聖なる紋章。腰まで伸びた美しい金髪。そして、柔和な微笑みを湛えた、聖母のような顔立ち。


 けれど、その手に握られているのは、禍々しい三日月を喰らう(ワシ)の紋章が刻まれた杖だった。


 黒く、歪んだ紋章が、まるで生きているかのように蠢いている。


 その瞬間、レオンの傍で、小さな水音がした。


 ミーシャが、意識を取り戻したのだ。


 彼女は朦朧とした様子で顔を上げ、回廊の女性を見た。そして――。


「あ、あぁ……」


 ミーシャの空色の瞳が、見開かれる。


 血の気が顔から引き、唇が震え始めた。


「……シスター……イザベラ……?」


 絞り出すような、か細い声だった。


 普段の余裕ある口調はそこにはない。ただ、子供のような、震える声だけがあった。


 イザベラと呼ばれた女性が、嬉しそうに目を細める。


「ふふっミーシャ。久しぶりですわね。こんなに立派になって……とても嬉しいわ」


 その言葉に、ミーシャの体が、びくりと震えた。


 恐怖。困惑。そして、何よりも深い――絶望がミーシャの顔に浮かぶ。


 シスター・イザベラ。


 それは、ミーシャが孤児院で「お母様」と慕い、神の教えと神に仕える女としての生き方を授けてくれた、唯一の家族とも呼べた存在だった。


 敬虔で、慈悲深く、そして誰よりも厳格だった彼女が。


 なぜ。


 なぜ、こんな場所に。


 なぜ、あの禍々しい紋章の杖を持っているのか。


「どう……して……」


 ミーシャの声が、震える。


「シスター・イザベラ……どうして、あなたが……こんな、場所に……」


「あらあら、ミーシャ」


 イザベラは、変わらぬ慈愛に満ちた微笑みを浮かべたまま、首を傾げた。


「それは、私が聞きたいですわ。どうして、あなたがこんな場所にいるのかしら? 私たちの聖なる聖域を、汚しに来た愚かなゴミどもに混ざっているのですか?」


「……え……?」


 ミーシャの瞳が、揺れる。


「聖なる……聖域……?」


「ええ、そうですわ」


 イザベラは、優しく、けれど確固たる意志を込めて頷いた。


「ここは、神の意志を実現するための、最も神聖な場所。愚かな人間たちに裁きを与え、新たな世界を創造するための、揺籃(ようらん)の地ですもの」


 その言葉の意味を理解した瞬間、ミーシャの顔から、完全に血の気が失せた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ