99. 新世界揺籃の地
「――っ! 罠か!」
レオンが叫んだ瞬間、階段の上方から、轟音とともに濁流が津波のように襲いかかってきた。
茶褐色に濁った水流は、階段の幅いっぱいに広がり、容赦なく五人へと迫る。その勢いは、まるで暴れ狂う獣のようだった。
「ホーリー――」
障壁を展開しようとしたミーシャの声が、濁流の咆哮にかき消される。
抗う術もなく、五人は激しい水流に飲み込まれた。
世界が、一瞬にして上下を失う。
体が、まるで木の葉のように弄ばれ、呼吸ができない。何も見えない。ただ、冷たい水が容赦なく押し寄せ、体を、意識を、引き裂いていく――――。
レオンは必死に手を伸ばした。誰かの手を、仲間の手を掴もうと。けれど、濁流は彼らを散り散りにしていく。指先が何かに触れた気がしたが、次の瞬間には、その感触も失われていた。
ごめん……みんな……。
薄れゆく意識の中で、レオンは心の中で謝罪した。
自分が、もっと警戒していれば。もっと、仲間たちを守れていれば。
自責の念が胸を締め付ける。
そして、暗闇が、全てを呑み込んだ――――。
◇
次にレオンが意識を取り戻した時、全身を包む冷たい感覚に、思わず呻き声を漏らした。
「……っ、う……」
体が、水に浮いている。
氷のように冷たい水が、全身を覆っていた。手足が思うように動かない。まるで体中に鉛を詰め込まれたような、重苦しい脱力感が全身を支配している。
これは……毒、か……?
レオンは必死に思考を巡らせる。水に何か、麻痺毒のようなものが混入されているのだろう。微かに、舌先が痺れるような感覚があった。
「みん……な……」
掠れた声で呼びかける。視界がぼやけている。目を凝らすと、自分たちが巨大な地下貯水槽のような場所にいることが分かった。
天井は高く、石造りの壁が周囲を取り囲んでいる。薄暗い空間に、無数の魔導灯が怪しげな光を放っていた。
そして、少し離れた場所に、仲間たちの姿が見える。
エリナ、ミーシャ、ルナ、シエル。
四人とも、レオンと同じように水面に浮かび、意識を失っているようだった。
「みんな……! しっかり、しろ……!」
レオンは必死に腕を動かし、近くにいたミーシャの元へと泳ごうとする。けれど、体が思うように動かない。僅かな距離が、途方もなく遠く感じられた。
その時だった。
頭上から、声が降ってきた。
「あらあら、可愛い迷える子羊たち。ようこそ我が神殿へ。ふふっ」
鈴を転がすような、美しい声。
けれど、その声には、どこか歪んだ慈愛が滲んでいた。まるで、壊れた聖歌隊が歌う賛美歌のような、不協和音を孕んだ優しさ。
レオンは、必死に顔を上げた。
貯水槽を見下ろす高い回廊に、一人の女性が立っていた。
純白のシスター服。銀糸で刺繍された聖なる紋章。腰まで伸びた美しい金髪。そして、柔和な微笑みを湛えた、聖母のような顔立ち。
けれど、その手に握られているのは、禍々しい三日月を喰らう鷲の紋章が刻まれた杖だった。
黒く、歪んだ紋章が、まるで生きているかのように蠢いている。
その瞬間、レオンの傍で、小さな水音がした。
ミーシャが、意識を取り戻したのだ。
彼女は朦朧とした様子で顔を上げ、回廊の女性を見た。そして――。
「あ、あぁ……」
ミーシャの空色の瞳が、見開かれる。
血の気が顔から引き、唇が震え始めた。
「……シスター……イザベラ……?」
絞り出すような、か細い声だった。
普段の余裕ある口調はそこにはない。ただ、子供のような、震える声だけがあった。
イザベラと呼ばれた女性が、嬉しそうに目を細める。
「ふふっミーシャ。久しぶりですわね。こんなに立派になって……とても嬉しいわ」
その言葉に、ミーシャの体が、びくりと震えた。
恐怖。困惑。そして、何よりも深い――絶望がミーシャの顔に浮かぶ。
シスター・イザベラ。
それは、ミーシャが孤児院で「お母様」と慕い、神の教えと神に仕える女としての生き方を授けてくれた、唯一の家族とも呼べた存在だった。
敬虔で、慈悲深く、そして誰よりも厳格だった彼女が。
なぜ。
なぜ、こんな場所に。
なぜ、あの禍々しい紋章の杖を持っているのか。
「どう……して……」
ミーシャの声が、震える。
「シスター・イザベラ……どうして、あなたが……こんな、場所に……」
「あらあら、ミーシャ」
イザベラは、変わらぬ慈愛に満ちた微笑みを浮かべたまま、首を傾げた。
「それは、私が聞きたいですわ。どうして、あなたがこんな場所にいるのかしら? 私たちの聖なる聖域を、汚しに来た愚かなゴミどもに混ざっているのですか?」
「……え……?」
ミーシャの瞳が、揺れる。
「聖なる……聖域……?」
「ええ、そうですわ」
イザベラは、優しく、けれど確固たる意志を込めて頷いた。
「ここは、神の意志を実現するための、最も神聖な場所。愚かな人間たちに裁きを与え、新たな世界を創造するための、揺籃の地ですもの」
その言葉の意味を理解した瞬間、ミーシャの顔から、完全に血の気が失せた。




