98. 古代ルーン文字
こんなもの……こんなもので、世界を……!
レオンの拳が、ぎりりと音を立てるほど強く握りしめられる。全身を駆け巡るのは、恐怖ではない。底知れない怒りだった。この禍々しい繭の一つ一つが、罪なき人々の命を奪い、世界を灰燼に帰す凶器となる。そんな狂った未来を許すわけにはいかない。
「焼き払ってやるわ!」
ルナが一歩前に踏み出し、杖を振りかざした。その緋色の瞳には、抑えきれない憤怒の炎が宿っている。既に杖の先端には、紅蓮の魔力が渦巻き始めていた。
「待て、ルナ!」
レオンはとっさにルナの肩を掴み、制止した。
「えっ!? でも、こんなもの放っておいたら……!」
「分かってる。だが、とても全部は倒せない」
レオンの声は、苦渋に満ちていた。冷静に、しかし確実に現実を告げる。
「倒せて数千体だ。だが、魔物の数は十万はいる。いや、それ以上かもしれない」
「だったら……! 少しでも削っておかないと、後で……!」
ルナの声が震える。悔しさと焦燥が、その言葉に滲んでいた。
「そうなんだが、こんな閉鎖空間では自殺行為なんだ」
レオンは、ルナの瞳をまっすぐに見つめた。翠色の瞳が、彼女の感情を受け止める。
「これだけの繭を焼けば、毒ガスも発生する。僕らも無事では済まない。ここで全滅したら、元も子もないんだ」
「そ、そうね……」
ルナは唇を噛み、杖を下ろした。魔力の光が、消えていく。その小さな肩が、悔しさに震えているのが見えた。
「じゃあ、どうするの……? このまま、見逃せっていうの……?」
エリナが横から進み出る。
「いや」
レオンは、大聖堂の奥を見据えた。その瞳に、鋭い光が宿る。
「ここを管理している心臓部が、きっとある。この施設全体を制御している、中枢が。そこを叩けば、全てを止められるはずだ」
「……分かったわ」
エリナも奥を見据える。
「急ぎましょう。一刻も早く!」「こんな魔物たち、早く何とかしないと……!」
シエルとミーシャも叫んだ。その声には、抑えきれない焦燥と、強い決意が込められている。
五人は、互いの顔を見合わせた。
恐怖はある。この無数の繭が、もし今この瞬間に目覚めたら。この十万を超える魔物が、一斉に殻を破り、襲いかかってきたら。想像しただけで、足がすくみ、呼吸が浅くなる。
けれど――。
だからこそ、止めなければならない。
ここで怯んでいる暇はない。恐怖に飲まれている時間はない。
五人は、息を殺し、脈打つ繭の森へと足を踏み入れた。
足音を立てないように、つま先で石床を踏みしめる。繭に触れないように、体を捻り、隙間を縫うように進む。慎重に、けれど可能な限り素早く。
ドクン……ドクン……ドクン……。
周囲の繭が、規則正しく、けれど不気味に脈打ち続ける。
その音が、五人の心臓の鼓動と重なり、まるで狂った交響曲のように響いた。生命と死。希望と絶望。それらが複雑に絡み合い、耳を劈くほどの不協和音を奏でる。
繭の間を抜ける。
一歩、また一歩。
やがて、大聖堂の最奥に――巨大な扉が、姿を現した。
黒光りする鋼鉄の扉。その表面には、無数の古代ルーン文字が刻まれ、禍々しい光を放っている。三日月を喰らう鷲の紋章が、扉の中央で不気味に脈動していた。
その扉の向こうに、全ての答えがある。
五人は、扉の前で立ち止まった。
誰も、言葉を発さない。
ただ、深く、深く、息を吸い込む。
震える手を、握りしめる。
恐怖を、覚悟に変える。
そして――。
レオンが、扉に手をかけた。
冷たい鋼鉄の感触が、掌に伝わる。
そして、扉を――押し開いた。
◇
「……行こう」
レオンの静かな声が、重苦しい空気を切り裂く。
扉の向こうには、下へと続く螺旋階段があった。石段は古く、踏みしめるたびに不安げな軋み音を立てる。壁には無数の古代ルーン文字が刻まれており、それらが仄暗く、青白い燐光を放っていた。
一歩、また一歩。
五人は警戒しながら、ゆっくりと階段を降りていく。足音が石壁に反響し、不気味な残響となって闇の奥へと吸い込まれていった。
空気が、降りるたびに重くなる。冷たく湿った闇が肌に纏わりつき、呼吸するたびに肺が凍りつくような感覚に襲われる。
「なんか……嫌な感じがするわね」
ルナが小さく呟く。その声には、普段の強気さはなく、僅かな震えが混じっていた。
「ええ……何かが、私たちを待っているような」
シエルも同意するように頷く。弓を構える手に、緊張が滲んでいた。
エリナは無言のまま剣の柄に手を添え、周囲を警戒している。その黒曜石の瞳が、僅かな異変も見逃すまいと鋭く光っていた。
ミーシャは、いつもの柔らかな微笑みを浮かべているが、その笑みの奥に潜む不安を、レオンは見逃さなかった。
その時だった。
ヴゥゥゥゥゥン――!
突如、壁に刻まれた古代ルーン文字が一斉に脈動し、禍々しい紅蓮の光を放ち始めた。まるで血管に血液が逆流するように、文字から文字へと光が伝播していく。




