91. 陽動
冷たい汗が、背中を伝う。心臓が、早鐘を打つ。呼吸が、浅くなる。
「どうする……どうすればいいの……!」
ルナが、震える声で呟いた。その目は恐怖で見開かれ、顔は蒼白になっている。もう、手のひらは汗でびっしょりだ。
「このまま……じっと待ってていいの……?」
シエルも、不安そうにレオンを見る。その声は泣きそうだ。
「戦わなきゃ……戦うしかないんじゃ……!」
エリナが、剣の柄を握りしめる。けれどその手も、激しく震えている。あの化け物に、本当に勝てるのか。いや、そもそも戦えるのか。
ミーシャは、もう何も言えなかった。ただ、杖を握りしめ、唇を噛みしめている。
レオンは、唇を血が出るほど強く噛んだ。
(策が……何か策が……何か方法が……!)
必死に考える。頭をフル回転させる。けれど、答えが出ない。何も浮かばない。
パリン!
アラクネの足音が、すぐそこまで迫っていた。
もう、時間がない。
その時――。
ガチャ!とドアが開き、ヴァレリウスが乗ってきた。
「――今ですな」
静かな声が響いた。
その瞳には、深い知恵と、そして確固たる決意が宿っている。まるで全てを見通しているかのような、神秘的な輝き。
「ヴァレリウス様……!」
レオンが、大導師を見つめた。
「レオン殿」
ヴァレリウスが、レオンに視線を向ける。
「敵の『未来視』は、今この瞬間、この化け物で我ら連合軍を殲滅する『確定した未来』に集中している。奴の意識は、この戦場での完全勝利に向いておるのじゃ」
その言葉に、レオンの目が見開かれる。
「つまり……!」
「そう。今こそが、裏をかく最大の好機!」
ヴァレリウスは、ローブの下から、古代ルーンが刻まれた黒檀の杖を取り出した。その杖からは、莫大な魔力が溢れ出している。まるで、太陽のような眩い光。
そして、その杖を馬車の床に突き立てた。
ドンッ!
その瞬間、馬車全体が震えた。床に、複雑な魔方陣が浮かび上がる。青白く光る紋様が、床全体を覆っていく。
「な、何を!?」
シエルが、驚いて叫んだ。
「『未来視』の裏をかく唯一の方法は何か、分かるかね?」
ヴァレリウスが、静かに問う。その声には、教師が生徒に問うような、穏やかさがある。
「それは、『未来視』が観測している『盤面』から、物理的に消え去ること。観測されていない場所に移動すること。つまり――転送じゃ!」
「転送!?」
レオンが驚愕の声を上げた。そんなものは、作戦にはなかった。ギルバートからも、ギルドマスターからも、何も聞いていない。
「この化け物をここに引きずり出した時点で、我らの『陽動』は成功しておる」
ヴァレリウスの言葉に、五人が息を呑む。
「陽動……ですって……?」
ミーシャが、信じられないという表情で呟いた。
「そう。この連合軍は、最初から『囮』。敵の注意を引きつけ、戦力を分散させるための『陽動部隊』じゃ。そして本命は――」
ヴァレリウスの目が、五人を見つめる。
「君たち。『アルカナ』という名の『刃』を、今から敵の心臓部へと送り込む」
その言葉が、馬車の中に響く。
「敵の本拠地……【月骸の聖壇】。そこへ、直接転送する。頼みましたぞ、若き英雄たちよ!」
ヴァレリウスのローブが、魔力で激しく膨れ上がった。その体から溢れ出す魔力が、まるで嵐のように馬車の中を満たす。髪が逆立ち、肌が痺れるほどの、圧倒的な魔力。
馬車の床に描かれた魔方陣が、アラクネの空間操作に対抗するかのように、凄まじい光を放ち始めた。青白い光が、どんどん強くなっていく。まるで星が生まれる瞬間のような、眩い輝き。
「待ってください!」
シエルが、叫んだ。その声は、涙声だ。
「みんなはどうなるんですか!? 騎士団の人たちは!? ギルバートさんは!?」
その問いに、ヴァレリウスは一瞬だけ表情を曇らせた。けれどすぐに、非情なほど冷静な顔に戻る。
「彼らは『盾』。その役目を、今まさに果たしておられる」
その言葉が、残酷に響く。
「そんな……そんなのって……!」
ルナが、拳を握りしめる。
「戦争とは、そういうものじゃ。誰かが盾となり、誰かが剣となる。それぞれの役目を果たすことでのみ、勝利は掴める」
ヴァレリウスの声は、冷徹だ。けれどその目には、深い悲しみが宿っている。
「安心せい。そう簡単にやられはせんよ。ワシも、ここで一花咲かせてやる。老いぼれの最後の見せ場じゃ」
その言葉に、レオンが顔を上げた。
「大導師……!」
「君たちは行け。そして、この世界を救え。それがワシの、いや、ここにいる全員の願いじゃ」
その瞬間――。
パリン!
馬車が大きく揺れた。アラクネ・ファンタズマが、遂に馬車のすぐ近くまで迫っていた。その巨大な影が、馬車全体を覆う。
水晶の脚が、天高く振り上げられる。その先端は鋭く尖り、まるで処刑の斧のよう。今まさに、馬車ごと空間を「切断」しようとしている。




