86. 空間の断層
馬車のすぐそばには、場違いにも見える姿の老人が控えていた。
星々を縫い付けた深紫色のローブを纏い、長い白髭を蓄え、水晶を埋め込んだ杖を持つその老人は、ただ立っているだけで周囲の空気を変える存在感を放っている。
大導師ヴァレリウス。
魔塔が誇る最強の魔術師の一人。エルウィン博士からの極秘の緊急要請を受け、秘密裏にこの地へとやってきた。その底知れない魔力は、ギルバートですら緊張させる空気を放っていた。
「大導師殿、お力添え、感謝いたします」
ギルバートが、馬上から敬礼する。
「ふむ。面白そうな戦いだからな。老いぼれの血が騒ぐわい」
ヴァレリウスが、その深い瞳でギルバートを見つめる。
「だが忘れるな。我が参戦していることは極秘だ。魔塔の公式な関与ではない。あくまで、老人の個人的な興味による参戦だということにしておけ」
「承知しております」
二人の間に、静かな理解が生まれる。
空が、さらに明るくなってきた。東の空が、オレンジ色から金色へと変わっていく。新しい一日が、始まろうとしている。
ギルバートが、馬を前に進めた。
騎士たちも、冒険者たちも、全員が彼を見つめている。静寂が、広場を支配した。
ギルバートが、剣を抜いた。その刃が、朝日を反射して輝く。
「諸君!」
その声が、広場に響き渡った。力強く、そして厳かな声。
「今日、我々は世界の命運を懸けた戦いに赴く!」
全員が、息を呑む。
「敵は強大だ。王国の中枢に潜み、多くの権力者を操り、この国を内側から蝕んでいる。我々は孤立無援だ。助けを求める先はない。それどころか、下手をすれば我々の方が反逆者として追われる立場だ!」
ギルバートの言葉が、重く響く。
「だが! それでも我々は戦う! なぜなら、我々が戦わなければ、誰が戦うのか! 我々が立ち上がらなければ、誰が立ち上がるのか! 正義が死に、秩序が腐り、真実が捻じ曲げられようとも――我々だけは、真実を知っている! 我々だけは、この世界を諦めていない!」
その言葉に、騎士たちが剣を掲げた。冒険者たちが武器を高く上げた。ガチャッ!ガチャッ!と金属音が響き渡り、雄叫びが上がる。
「我が主君を取り戻す! この国を救う! そして――世界に、真の正義を示す!」
ギルバートが、剣を前方へビュッと振った。
「――出陣!」
その号令と共に、地響きを立てて連合軍は進軍を開始した。
蹄の音。足音。鎧の音。それらが重なり合い、まるで雷鳴のように響く。
太陽が、地平線から昇った。金色の光が、世界を照らす。その光の中を、軍勢が進んでいく。
世界の命運を懸けた、壮大な決戦の始まりだった。
馬車の中で、レオンは窓の外を見つめていた。進軍する兵士たち。決意に満ちた顔。希望と不安が入り混じった表情。
レオンの心に、様々な感情が渦巻く。
(生きて……帰れないかもしれない)
ふと、恐怖、不安がこみあげてくる。けれど、それ以上に強いのは――決意だ。
(妹の仇を取る。仲間を守る。この世界を、救う)
その想いを胸に、レオンは拳を握りしめた。
◇
街を抜け、広大な平原へと足を踏み入れた、その瞬間だった――――。
キィィィィン……。
まるでガラスを爪で引っ掻くような甲高い不協和音が響き渡った。それは音というより、世界そのものが擦れるような、存在そのものを揺るがす振動。鼓膜を通り越して、直接脳に響いてくる不快な音。
馬たちが、いななきを上げて不安げに足踏みする。騎士たちが、周囲を警戒しながら武器を構え、冒険者たちが身構えた。
馬車の中、ミーシャが顔を蒼白にさせ、震える声で叫んだ。
「これは……魔力ではありません! 空間そのものが、悲鳴を上げています! 世界が、何かに引き裂かれようとしてるわ!」
その言葉が終わるか否か。
平原の真ん中、連合軍の進路上で、何もない空間が『割れた』。
バリバリバリィィィッ!
巨大な鏡が砕け散るような音。いや、空間そのものが破壊される音。現実が壊れる音。その亀裂から、無数の透明な結晶の破片が生み出されてくる。
その破片は空中に浮かんだまま、まるで意志を持つかのように次々と組み合わさっていく。カチャ、カチャ、カチャという機械的な音を立てながら、一つの形を成していく。
「総員戦闘配置ぃぃぃ!」
ギルバートの叫び声が響くが、一同は見たこともない異様な事態に気おされていた。
やがて現れたのは、水晶で作られたような巨大な蜘蛛だった。
その大きさは、三階建ての建物ほど。八本の脚は鋭利なカケラの集合体でできており、胴体は無数の幾何学的な結晶が組み合わさって形成されている。頭部には、無数の複眼が輝いているが、その目には生命の輝きはない。ただ、冷たい光だけが反射している。
「な、なんだあれは!?」「あんな魔物聞いたことがないぞ!」
どよめく一同。
それは生き物というより、歩く「空間の断層」そのものだった。その存在自体が現実を歪ませ、周囲の景色を歪め、存在するだけで世界に傷を刻んでいるかのように見えた。




