72. 震える体温
その時――。
「逃げたぞ! 追え!」
市場の向こうから、鋭い声が響いた。振り返ると、蒼き獅子の紋章を身に着けた騎士たちが、人混みをかき分けてこちらに向かってくる。その先頭には、見覚えのある巨漢の姿。
「ギルバート!?」
シエルが息を呑んだ。その碧眼に、驚愕と戸惑いが浮かぶ。
「お待ちください!」
ギルバートの声が響く。
「走るぞ!」
レオンがシエルの手を強く握った。
「う、うん!」
二人は細い路地に飛び込み、一気に駆け出した。背後から追ってくる重い足音。市場の平和な朝は、一瞬で戦場へと変わった。
◇
ガチャガチャという軽鎧の音が迫ってくる――――。
「どこ行った!?」「探せぇ!」
騎士たちの声が響く。レオンとシエルは路地を曲がり、また曲がり、右へ左へと迷路のような街の裏道を駆け抜けていく。息が切れ、足が重くなる。それでも二人は走り続けた。
「ここに隠れよう!」
二人は小さな祠の裏にスッと隠れる。息を殺し、背中を祠の壁に押し付けた。シエルの手がレオンの手をぎゅっと握っている。その手は小刻みに震えていた。
レオンは首にかけていたペンダントに手を伸ばす。それは緊急連絡用の魔道具で、紫色の魔石が埋め込まれている。
レオンはその魔石をぐっと押し込んだ。パキッ! 魔石が砕ける。その瞬間、目に見えない魔力の波が放たれた。これで屋敷に警報が鳴る。みんなに緊急事態が伝わる。
(気づいてくれよ……)
レオンはぎゅっとシエルの手を握った――――。
◇
ガチャッガチャッ、ガチャッガチャッ!
騎士たちの足音が近づいてくる。無骨な重い足音が祠の前を通り過ぎようとして止まった。レオンの心臓が激しく波打つ。シエルの手が震えた。
「くそっ! 見失った!」
一人の騎士が悔しそうに叫ぶ。
「お前はあっちだ!」「了解!」
バタバタと散開していく足音。レオンはまだ動かない。シエルはぎゅっとレオンにしがみつく――――。
足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなった。それでもしばらく待つ。一分、二分と時間が過ぎていく。
「うちの騎士団……ギルバートまで……」
シエルが頭を抱える。その声が震えている。
「ついに、見つかっちゃった……もう、逃げられない……」
その言葉にレオンの胸が締め付けられた。シエルはずっと、この日が来ることを恐れていた。家に連れ戻される日。自由を奪われる日。また『商品』として扱われる日。
「大丈夫」
レオンはシエルを抱きしめた。ぎゅっと、温かく、しっかりと。
「絶対に守り切るから」
耳元で囁く。その言葉にシエルの体が少しだけ力を抜いた。
「……ありがとう……」
シエルは涙目で小さく頷く――。
けれどレオンの心は穏やかではなかった。【運命鑑定】を失った今の自分に、最善の選択肢は見えない。ただ全力を尽くすしかないのだ。
シエルの銀髪が頬に触れ、その震える体温が伝わってくる。この温もりは、絶対に守る!
「行こう。みんなが待ってる」
「……うん」
レオンが手を差し出すと、シエルはその手をしっかりと握った。碧眼には恐怖と不安の中にも、レオンへの信頼の光が宿っている。
二人は再び走り出した。追手の声が遠くから聞こえる。けれど二人は諦めなかった。希望が待つ場所へ、必ず辿り着いてみせる――――。
◇
レオンは事前に調査しておいた、フェンスの壊れた場所を抜けた。そこから民家の庭に侵入する。洗濯物が干され、シーツが風に揺れている。その間を二人は駆け抜けた。
「あら!?」
庭にいた主婦が驚いて声を上げる。
「すみません! 通ります!」
レオンは謝りながら走る。裏口から路地に出て、また民家の庭を走る。シエルの手を引いて道なき道を、ただひたすらに駆けていく。
息が上がる。喉が渇く。足が痛い。けれど止まらない。止まれない。背後からまだ追ってくる気配がある。鎧の音が、じわじわと近づいてくる。
ピィィィィ!
「いたぞーー! あそこだ!」
時計台の上から指示が飛ぶ。さすが王国最強の騎士団、包囲探索能力も想像以上だった。
くそ、しつこい……!
レオンの額に汗が滲む。シエルも必死についてきている。その顔は汗と涙で濡れていた。
やがて二人がたどり着いたのは、木々が茂る街で最も大きな公園だった。
「シエル! あの一番高い木の上に!」
「分かった!」
シエルは弓を背負い直すと、しなやかな動きで大木の幹を駆け上がった。まるでリスのように軽やかに枝から枝へと飛び移り、あっという間に木の上に姿を消す。
レオンも不器用に木を登り始める。
「レオン! 手を!」
シエルが手を伸ばしてくれる。その手を掴み、引っ張り上げてもらい、ようやく太い枝の上にたどり着いた。息を整える――。
木の葉がいい感じに二人を隠してくれていた。
次々と公園になだれ込んでくる騎士たち。その数、およそ三十。ガシャ、ガシャ、ガシャと重い足音が響く。




