71. プロトコル・チャーリー
しばらくしてレオンが朝市へ買い出ししようと玄関を出ると、ちょうど訓練を終えたシエルと鉢合わせた。
「あ――」
二人の目が合う。シエルは額に汗を浮かべ、頬を紅潮させていた。その表情には、どこか満足げな色が浮かんでいる。
「おはよう、シエル。朝から熱心だな」
レオンが微笑みかけると、シエルが恥ずかしそうにうつむいた。
「す、少しでも、みんなの役に立ちたくて……。で、レオンは? どこへ行くの?」
「市場に買い出しに……ね」
レオンがそう答えた瞬間、シエルの碧眼が期待に煌めいた。
「い、行く! ボクも行く!」
その嬉しそうな顔と弾むような声に、レオンは少し迷った。二人では襲われたときに対応が厳しいのだ。でも――シエルの嬉しそうな顔を見ると、断ることなんてできなかった。
「じゃあ、行くか」
「うん!」
シエルが満面の笑みで頷いた。
◇
朝の街はまだ人が少なく、石畳の道を二人並んで歩く足音だけが静かに響く。シエルはレオンの隣を少し緊張した様子で歩き、時折レオンの顔をちらりと見上げては、すぐに視線を逸らす。その仕草がどこか初々しかった。
やがて市場に近づくにつれ人が増えてきた。商人が荷物を運び、職人が店の準備をし、子供たちが走り回っている。人混みが二人の間を割って入ろうとしたその時、シエルが少し照れくさそうに、レオンの腕にそっと自分の腕を絡ませてきた。
(へっ!?)
レオンの心臓が跳ねる。柔らかな感触、温かい体温、シエルの髪の香り。それがすぐ隣で感じられる。
「人混みで、はぐれたら困るしね!」
シエルが顔を真っ赤にしながら早口で言い訳をする。その姿がたまらなく可愛らしくて、レオンは思わず笑みをこぼした。
レオンも勇気を振り絞ってその小さな手を優しく取った。指を絡め、しっかりと繋ぐ。
「こ、こっちの方が、はぐれないだろ?」
その言葉に、シエルは驚きに目を見開いた。顔が一気に真っ赤になり、耳まで赤い。けれどすぐに顔を綻ばせ、幸せを噛みしめるように、繋がれた手にぎゅっと力を込めた。
「……うん」
小さく呟く。その声は震えていた。
二人は手を繋いだまま、朝の街を歩いていく。周囲の人々が微笑ましそうに二人を見ていた。
◇
市場に着くと、そこは既に活気に満ちていた。
「新鮮な魚だよ!」「とれたて野菜はいかがですかー!」「焼きたてのパン、安いよー!」
商人たちの掛け声が飛び交い、色とりどりの商品が並んでいる。果物、野菜、肉、魚、パン、布、道具。ありとあらゆるものがここにあった。
「すごい……こんなに賑やかなのね」
シエルが目を輝かせた。
「ああ、朝市はいつもこうだ」
レオンが笑う。二人はまだ手を繋いだまま、市場の中を歩いていく。まず野菜の店へ。レオンがトマトを手に取り、シエルが頷く。次は肉屋へ。店主が笑顔で豚肉を勧めてくる。パン屋では焼きたてのパンの香りが漂い、シエルが「いい匂い……お腹空いちゃった」と目を細める。
レオンがパンを買い、まだ温かいそれを二人で分けて食べる。
「美味しい……」
シエルが幸せそうに呟いた。こんな何でもない日常。けれどそれが、たまらなく幸せだった。
買い物を終えて、二人は市場の端にある噴水の前で休憩する。ベンチに座り、シエルはリンゴを頬張りながら満足そうに笑っていた。
「市場で買い物……楽しかった」
その言葉に、レオンの胸が温かくなった。
「ああ、俺も」
二人の間に穏やかな時間が流れる。噴水の水音、鳥のさえずり、遠くから聞こえる市場の喧騒。すべてが平和で温かかった。
だが、その平和は突然破られた――――。
◇
ピロン!
レオンの視界に何かが浮かび上がった。
【繧ケ繧ュ繝ォ繝。繝?そ繝シ繧ク】
文字化けしたメッセージ。それはまるで壊れたガラスの破片のように、視界の中でチカチカと明滅している。
レオンの全身に電撃が走った。心臓が激しく波打つ。これは壊れた【運命鑑定】……!?
失ったはずのスキルが今、何かを告げようとしている――――。
慌てて周りを確認する。けれど特に変わったことはない。市場の人々も普通に行き来している。でも、レオンの直感が叫んでいた。このメッセージは、何もないのに浮かばない。何か決定的な何かが起こる。その予兆だ。
逃げなければ……!
レオンは決断し、シエルの耳元にそっと顔を近づけて小声で囁いた。
「プロトコル・チャーリー」
その言葉を聞いた瞬間、シエルの頬がピクッと動き、ゆっくりと頷く。プロトコル・チャーリー――それはアルカナのメンバーが定めた緊急脱出のコード。何か危険が迫った時、この合図で即座に逃走する取り決めなのだ。
「いやぁ、リンゴは美味しいねぇ」
レオンがわざとらしく大きな声で言う。
「そ、そうだね」
シエルもそれに合わせる。何気ない会話。自然な動作で立ち上がり、買い物袋を諦め、手をつないで小走りで細い路地へと歩いていく。事前に想定していた脱出ルート。




