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69. 回収せよ

 三大公爵家の一つ、アステリア公爵家の書斎は、墓所のように静まり返っていた。


 重厚な扉、壁一面を覆う古い書物、天井から吊るされたシャンデリア。そして部屋の中央に鎮座する、磨き上げられた黒檀の机。その机に、一人の男が座っていた。


 アウグスト・フォン・アステリア公爵。三大公爵家の当主にして、王国の重鎮。五十を過ぎたその顔には深い皺が刻まれている。かつては威厳に満ちていたであろうその顔。けれど今は、何かが違っていた。


 表情がまるで仮面のように動かない。瞳に人間的な光が宿っていない。


 彼の視線は、机の上に置かれた一枚の報告書に注がれていた。報告書には、王都で流行している英雄譚の概要と、聞き取りを元に描かれた『アルカナ』メンバーの稚拙な似顔絵が添えられている。五人の似顔絵。黒髪の剣士、金髪の僧侶、赤髪の魔法使い、茶髪の軍師。そして――銀髪の弓手。


 公爵の凍てついた視線が、銀髪の少女の絵に突き刺さった。


 その瞬間、彼の瞳の奥に一瞬だけ何かが揺らめいた。父親としての苦悩。愛情の光。それがほんの一瞬だけ宿った。


「……シエル……」


 その呟きは、あまりにも小さく、あまりにも儚かった。


 けれど次の瞬間、公爵の表情が苦悶に歪む。


「ぐっ……!」


 胸元を強く押さえる。その手が震えている。呼吸が乱れ、顔が歪む。ワイシャツの襟元から、黒い血管のような紋様がまるで生き物のように這い上がってくるのが見えた。それは脈打っていた。ドクン、ドクンと、まるで心臓のように。


 公爵の顔が汗に濡れる。その表情には恐怖と苦痛、そして何かと戦っているような必死の色が浮かんでいた。


 違う……シエルは、娘は……娘を守らなければ……。


 心の中で叫ぶ。けれど、その想いは黒い紋様に飲み込まれていく。ドクン、ドクンと、紋様が脈打つたびに公爵の意識が侵食され、彼の意思が奪われていく。


 数ヶ月前、政敵との会談の帰路、何者かに襲われた。気づいた時には、体の中に何かが埋め込まれていたのだ。闇の組織が作り出した『支配の核』が。以来、公爵の意思はもはや彼自身のものではなかった。核が命じるまま、核が望むまま、彼は傀儡として動かされている。


 やがて、紋様が首筋まで這い上がり、そしてゆっくりと引いていく。公爵の表情から苦悶の色が消え、代わりに冷たく無機質な表情が戻ってくる。


 彼は再び報告書を見た。銀髪の少女の絵を。その瞳にはもう、父親としての光はない。ただ、冷たく計算高い光だけが宿っていた。


「出来損ないが」


 その声は氷のように冷たかった。


「計画を邪魔しおって」


 報告書を握りしめる手に青筋が浮かび上がる。彼を操る『核』にとって、シエルは計画の障害でしかなく、回収すべき対象でしかなかった。


 公爵は――いや、公爵を操る『核』は――静かに机の引き出しを開けた。そこから取り出したのは一枚の羊皮紙。そこには何かの計画が細かく記されている。『核』はそれを眺めながら、冷たく笑った。


「計画の障害を『回収』する」


 その言葉には、人間的な感情がまったく籠もっていなかった。


 彼は机の上のベルに手を伸ばし、チリンと鳴らす。その響きは、まるで運命の終わりを告げる鐘のように、不吉に響き渡った。



       ◇



 扉が開き、黒い外套(マント)を纏った執事が入ってくる。その男の首筋にも、同じ黒い紋様が浮かんでいた。


「お呼びでございますか、公爵閣下」


「クーベルノーツに騎士団を派遣だ。『アルカナ』の銀髪の弓手を……」


 公爵の声は、感情を削ぎ落としたように平坦だった。


「お嬢様を取り戻す、ということでございますか」


「いや」


 公爵は冷たく微笑んだ。


「出来損ないを『回収』するのだ」


 執事は深々と頭を下げ消えていった。書斎に再び静寂が戻る。公爵は報告書を握りしめたまま、窓の外を見つめた。


 遠く、王都の街並みが広がっている。そこでは『アルカナの英雄譚』が歌われ、人々が五人の英雄を讃えている。


 けれど、その栄光の影で、恐るべき陰謀が静かに、確実に動き始めていた。



       ◇



 書斎の重厚な扉が開かれた。ギィィ……という音が静寂を破る。


 そして、一人の男が部屋に入ってきた。身長は二メートル近く、鋼のような肉体に傷だらけの顔、腰には大剣。その存在感は圧倒的だった。


 ギルバート・フォン・シュタイナー。アステリア家に代々仕える家門、最強の騎士団『(あお)獅子(しし)騎士団』の団長。最強の剣士にして、鉄の忠誠心を持つ男。


 彼は公爵の前で片膝をついた。ガシャと軽鎧の音が響く。


「団長ギルバート、ただいま参上いたしました」


 その声は低く力強い。けれど、どこか硬かった。公爵は背を向けたまま、窓の外を見ている。まるで石像のように動かないその背中。重く息苦しい沈黙が流れる。


 やがて、公爵が口を開いた。


「ギルバート。我が娘、シエル・フォン・アステリアを『回収』せよ」


 その言葉を聞いた瞬間、ギルバートの体がわずかに硬直した。回収――? まるで物を扱うかのような言葉。けれどギルバートは、何も言わなかった。


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