66. 鉄の臭い
レオンはふぅと大きく息をつくとお湯を沸かし、ミーシャの好きなハーブティを入れた。
心が落ち着くというミーシャお勧めの香りをゆっくりとすする――――。
確かに不安は少し薄らいだ。
しかし、飲み終わり、闇が深くなっても彼女たちは帰ってこない。
時計の音が、まるで拷問のように、レオンの心を蝕んでいく。
(……おかしい。もう、とっくに帰ってくる時間だ)
不安が胸の中で膨らんでいく。心臓が不規則に波打ち始める。
(まさか、討伐相手に苦戦しているのか……?)
最悪の想像が、頭をよぎる。
(いや、あいつらなら大丈夫なはずだ。強くなった。スタンピードも、カインも、乗り越えた。だから、大丈夫なはずだ)
自分に言い聞かせる。けれど、不安は消えない。
(でも、魔物が予想以上に強かったら? 罠にかけられていたら?)
想像が、どんどん悪い方向へと向かっていく。
(俺がついていれば……避けられたことがあったかも?)
後悔が、胸を締め付ける。
居ても立っても居られなくなって窓辺に駆け寄った。
その時、レオンの鼻に、何かの臭いが届く。
血の臭い?!
それは窓枠の鉄の臭いだった。けれど、その臭いは、あの日の記憶を呼び覚ました。
妹を失った、あの日。
目の前で、妹が倒れた。
血を流して。助けを求めて。けれど、レオンは動けなかった。恐怖で、何もできなかった。
そして、妹を失った。
自分の目の前で。自分の腕の中で。自分が、何もできないまま。
その記憶が、フラッシュバックする。
妹の顔。血に染まった服。冷たくなっていく体。消えていく体温。
そして、その顔が、エリナの顔に変わる。ミーシャの顔に変わる。ルナの顔に変わる。シエルの顔に変わる。
「――っ!」
レオンの呼吸が、乱れた。
「う、ぁ……」
胸が苦しい。息ができない。心臓が、激しく波打つ。めまいがする。視界が、歪む。
立っていられなくなり、その場に崩れ落ちそうになる。けれど、必死に壁に手をついて堪える。冷たい壁の感触が、かろうじて現実を繋ぎ止める。
呼吸が、浅くなる。ハァ、ハァ、ハァ。心臓が、嫌な音を立てて軋む。ドクン、ドクン、ドクン。
(違う……違う……あれは、過去のことだ……)
自分に言い聞かせる。けれど、恐怖は消えない。
(みんなは、無事だ……無事なはずだ……)
祈るように、呟く。
レオンは、よろよろと椅子まで歩いた。膝が震える。足が、言うことを聞かない。ようやく椅子にたどり着き、座り込む。
そして、窓の外を見つめた。屋敷へと続く暗い道を。
街灯だけが道を照らしている。木々の影が不気味に揺れている。風の音がまるで何かの叫び声のように聞こえる。
レオンは、ただひたすら、その道を凝視し続けた。まるで祈るかのように。
◇
どれほどの時間が経ったか。
レオンは、もう時間の感覚を失っていた。ただ、窓の外を見つめ続けている。暗闇を。何も見えない道を。
絶望が、完全に心を飲み込もうとしていた、その時。
遠い、遠い闇の向こうから、不意に、何かが聞こえた気がした。
ガタッと立ち上がり、耳をそばだてる――――。
幻聴?
けれど、その声は、次第に大きくなってくる。
「……っ!」
それは、幻聴ではなかった。
確かに、聞こえる。
みんなの、声が。
「――!!」
レオンは、椅子を蹴るように立ち上がった。
ただ、夢中で玄関へと走った。
エプロン姿のまま。頬を伝う涙も拭わずに。
玄関にたどり着き、扉に手をかけ、勢いよく開け放った。
ガンッ!
扉が、壁にぶつかる音。
街灯の柔らかな光が、四つの影を優しく照らしている。
エリナ、ミーシャ、ルナ、シエル。
街灯の光に浮かび上がる四人の姿。みんな、少し疲れた顔をしている。服は土や草で汚れ、髪は乱れている。
けれど、その顔には、誇らしげな笑みが浮かんでいた。達成感からくる、満足げな表情。疲れているはずなのに、その瞳は輝いている。
屋敷から漏れる温かい光の中に浮かぶ姿は、まるで戦場から凱旋した英雄たちのように見えた。
レオンの視界が、滲んだ。
胸が、熱くなる。
喉が、詰まる。
「……おそかったじゃ、な……」
そう言いかけた、その瞬間。
「レオーン!」
ルナの叫び声が、夜の静寂を破った。
彼女が一気に駆け出した。赤い髪が風になびき、小さな体が猛スピードで距離を詰めてくる。その顔には、笑顔と涙が混ざっている。
「あっ! ずるい!」
「ちょっとぉ! 待ちなさいよぉ!」
「ルナ!」
残り三人も、負けじと駆け出した。
シエルが、ミーシャが、エリナが。
四人の足音が、石畳に響く。バタバタという音。息を切らす音。笑い声。
そして、ルナがレオンに飛びついてくる。
「レオーン!」
「うおっ!」
レオンがよろめく。けれど、倒れない。しっかりと、ルナを受け止める。




