60. 三位一体
「嘘……まだ生きてるの……!?」
ルナの声が裏返った。彼女の赤い瞳が恐怖に見開かれる。あれほどの炎を浴びながら、まだ立っている。焼けただれた緑色の皮膚から白い湯気が立ち上り、溶けかけた肉がドロドロと地面に滴り落ちているというのに、ゴブリンロードは憎悪に満ちた黄色い目を光らせ、こちらを睨んでいる。その瞳には理性のかけらもなく、ただ殺意だけが渦巻いていた。
グルルルルァァァ……!
喉の奥から絞り出されるような、純粋な怒りと憎しみの咆哮。空気が震え、木々の葉が震える。
「まだ元気なんて、しぶといわね!」
シエルが即座に矢を番える――――。
深呼吸ひとつ。胸が上下する。心臓の鼓動を落ち着かせ、狙いを定める。矢じりがかすかに青白く光り始める。魔力が込められた証だ。
ヒュヒュヒュンッ!
三矢斉射。風を切り裂く音と共に、三本の矢は青い光の尾を引きながらゴブリンロードへと殺到する。
けれど、キィィィンッ! キィンッ! キィンッ!
ゴブリンロードは巨体に見合わぬ速度で石斧を振るい、飛来する矢を次々と弾き落とす。火花が散る。金属音が森に響き渡る。
それでもひるまずシエルは三矢斉射を続けていく――――。
さすがのゴブリンロードも全部は落とせない。数本の矢が肩や腕に突き刺さる。しかし、まるで痛みを感じていないかのように、その勢いは一切衰えない。逆に加速していく。地面を踏みしめるたびに、ズシン、ズシンと重い音が響く。距離がどんどん縮まっていく――。
「くっ……!」
シエルが歯噛みする。
「させませんわ!」
その瞬間、ミーシャの澄んだ声が響いた。彼女は杖を高く掲げ、その先端から眩い光が溢れ出す。金色の魔力粒子が空中で渦を巻き、幾何学的な魔法陣を形成していく。
「慈悲深き光よ、我らを守護せよ。ホーリーシールド!」
詠唱と共に、ゴブリンロードの眼前に光り輝く障壁が出現した。それは透明な水晶のように美しく、しかし鋼鉄よりも堅牢な防壁。神聖な力が凝縮されたその盾は、空気を震わせながら輝きを増していく。
ロードの動きが止まった。その顔に、初めて戸惑いの色が浮かぶ。けれど、それも長くは続かない。
グォォォォアアアァァ!!
狂ったような咆哮と共に、連打が始まった。ガン、ガン、ガンッ! ガガガガガン! まるで鍛冶屋のハンマーが金床を叩くような激しい音。一撃、二撃、三撃。障壁に亀裂が走り始める。細かいひびがクモの巣のように広がっていく。
ミーシャの額に汗が滲む。顔が青ざめ、唇から血の気が引いていく。両手で杖を握りしめるが、その手が小刻みに震えている。膝がガクガクと震え、今にも崩れ落ちそうだ。
(くぅぅぅ……もう、限界……!)
刹那――。
パリィィインッ!
ついに光の障壁がガラスのように砕け散った。無数の光の破片が宙を舞い、まるで蛍のように儚く消えていく。
しかし、その一瞬で十分だった。
障壁が砕けた直後、まるで弾丸のように銀色の閃光が躍り出た。エリナだ。地面を蹴る音が一度。次の瞬間には、もうゴブリンロードの懐に入り込んでいた。その速度は、目にも留まらぬほど。黒髪が風になびき、黒曜石のような瞳が獲物を捉える。赤い剣がギラリと輝く。
しかしロードもエリナをとらえていた。
ブンッ! という風を切る音と共に、巨大な石斧が振り下ろされる。直撃すれば、骨も残らない。周囲の誰もが息を呑んだ。
けれどエリナは、紙一重で身をかわす。石斧がスレスレを通過し、エリナの髪の毛が数本、切れて宙を舞う。
地面に激突する石斧。ドゴォン! という轟音と共に、地面が抉れ、土煙が舞い上がる。
(オーガジェネラルに比べたら……児戯に等しい!)
エリナの口元には笑みすら浮かんでいた。
まるで舞うように体を捻り、ロードの足の腱を鋭く切り裂く。ズバッ! 肉を断つ音。緑の鮮血が弧を描いて飛び散った。
グォォッ!
巨体がよろめいた。片膝が地面につく。バランスを崩し、石斧を支えにして体を支える。
(チャンス!)
シエルの目が鋭く光る。
「三位一体!」
ヒュ、ヒュ、ヒュンッ!
三本の矢が同時に放たれた。三つの青い光の軌跡が、まるで一つの意思を持っているかのように、完璧な軌道を描いて標的へと迫る。
体勢を崩したロードは対応が遅れた。二本の矢を払いのけたものの最後の一本が、狂気に満ちた右目を正確に射抜いた。
ザシュッ!
ギィィィィィッ!
ゴブリンロードは苦痛に身悶える。
その瞬間、タタッとエリナが舞った。
死神のように、音もなく、美しく地面を蹴る――――。
空中で体をクルリと回転させ、遠心力を剣に込めた。
うらぁぁぁ!
がら空きになった首筋に、エリナの冷徹な一閃が吸い込まれていく。
シュパッ!
まるで熟れた果実を切るかのような、滑らかな斬撃――全てが完璧だった。
時が止まったかのような静寂。
世界から音が消える。ただ、剣が肉を断つ音だけが、鮮明に響く。
ズン!
首が落ち、ゴロゴロと転がった――――。
やがて巨体は糸が切れた人形のように力を失い、地響きを立てて地に倒れた。




