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6. 一晩いくら?

「い、いただきます!」


 ルナが待ちきれないといった様子でスプーンを握りしめ、シチューを口に運んだ。


「熱っ!」


 舌を火傷しそうになりながらも、その顔は幸福に満ちている。


「でも、おいしい! すっごくおいしい!」


 その純粋な喜びの表情に、張り詰めていた空気が和らいでいく。


 シエルも我を忘れたように肉にかぶりつく。まるで、次の瞬間には消えてしまうかのように、必死に頬張る。それは、いつ次の食事にありつけるか分からない逃亡生活が生んだ、悲しい本能だった。


 ミーシャは相変わらず優雅にスプーンを口元に運んでいるが、その空色の瞳は冷静に全員を観察している。誰が遠慮しているか、誰が幸せそうか、誰が過去を思い出しているか――まるで心理を分析するかのように。


 そして、エリナ。


 彼女がシチューを一口含んだ瞬間、その体が凍りついた。


 ――この味は。


 じゃがいもの優しい甘み、人参の素朴な味わい、ローリエの上品な香り、そして最後に加えられた生クリームのまろやかさ。それは、死んだ母が作ってくれたシチューと、恐ろしいほど似ていた。


 記憶が、(せき)を切ったように溢れ出す。


 五年前、運命の日の前夜。


『エリナ、おかわりは?』

『もうお腹いっぱい!』

『あら、せっかく作ったのに』


 母の優しい笑顔。父の豪快な笑い声。弟の無邪気なおしゃべり。それが、家族と過ごした最後の晩餐だった。翌朝、盗賊団が村を襲い、全てが血と炎に呑まれた。


 エリナの漆黒の瞳に透明な雫が浮かぶ。慌てて俯き、髪で顔を隠す。


 ――私だけが生き残って、こんな美味しいものを食べている。


 罪悪感が、エリナの胸を締め付ける。


 レオンはそんなエリナの仕草を見て心を痛めた。


 訳ありの少女たちだ。トラウマを引き起こす地雷はそこら中にあるのだろう。


 しかし――かける言葉など思いつかなかった。


 どんな言葉もエリナの心を救えるようには思えないのだ。


 レオンはただ静かに、肉の塊から最も柔らかく、最も美味しそうな部位を切り分けると、無言でエリナの皿に置く。


 それが最大限、レオンのできることだった。


 エリナがハッとして顔を上げる。レオンは何事もなかったように、自分のシチューをすする。


「……ありがと」


 かすれた声で呟いて、エリナは肉を口に運ぶ。


 塩辛い涙の味がするはずなのに、不思議とエリナの胸には温かさが広がった――――。



 一方、シエルは肉を夢中で頬張りながら、ふと正気に返った。


 ――また、やってしまった。


 まるで飢えた野犬のような食べ方。かつてアステリア公爵家の令嬢として、最高の作法を叩き込まれた自分が、こんなみっともない姿を晒している。


 恥ずかしさで頬が熱くなり、シエルは小さく咳払いをした。


「ご、ごめんなさい。みっともない食べ方して……」


「何言ってるの!」


 ルナが屈託なく笑う。


「美味しいものは、周り気にせず伸び伸びと食べるのが一番よ! ね!」


 その純粋な笑顔に、シエルの肩から力が抜けていく。そうだ、もう令嬢じゃない。ただの、シエルなのだ。



      ◇



 食事が佳境に入った頃、不穏な空気が漂い始めた。


「おいおい、見ろよ」


 隣のテーブルから、酒臭い声が響く。


「Fランクの雛鳥どもが、俺たちより豪勢な飯食ってるぜ」


 振り返ると、三人組の冒険者。胸元でCランクのブロンズバッジが、ギラギラと不愉快な光を放っている。リーダー格の大男――カルロスが、にやけた顔で立ち上がった。


「なあ、お嬢ちゃんたち。どうせ体売って稼いだ金だろ? 俺にも一晩くらい、いいだろ? いくらだ?」


 下卑た笑みを浮かべながら、男が一歩近づく。


 瞬間――。


 エリナの手が、電光石火の速さで剣の柄を掴んだ。


「売りもんじゃないわ! 近づかないで!」


 凍てつくような殺気が、店内の空気を一変させる。談笑していた客たちが息を呑み、女将が心配そうに様子をうかがう。


「おお、怖い怖い。だが、Fランクの小娘が、俺たちCランクに勝てると思ってるのか?」


 カルロスの仲間も武器に手をかける。一触即発の空気が、店内を支配した。


 レオンの瞳が一瞬、黄金の光を帯びる――――。


「待って、エリナ」


 レオンが静かに、しかし確信を持って制止した。


「何もしなくていい。彼らは勝手に自滅する」


「は? 何を言って――」


 エリナが困惑した、その瞬間。


「なんだぁ!? この俺様が自滅だとぉ?!」


 カルロスが激昂し、威嚇するように大股で一歩踏み出した。だが、酒で鈍った足は思うように動かず、自分の椅子の足に見事に引っかかった。


「うわっ!」


 巨体が無様にバランスを崩す。必死に何かに掴まろうと手を伸ばすが、掴んだのは隣のテーブルクロス。そのテーブルの上には、ちょうど運ばれてきたばかりの、グツグツと煮えたぎる鍋が――。


 ガシャァンン!


「ぎゃあああああ! 熱い! 熱いいいいい!」


 カルロスが鍋から顔を上げる。真っ赤なトマトソースが顔中にべったりと付着し、まるで血まみれの怪物のような惨状となった――――。



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― 新着の感想 ―
Xでご紹介を受けここまで拝読させていただきました。 すごく丁寧な描写で引き込まれる感覚になり、とても勉強になりました。 今後も続きを読ませていただきます。
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