55. 禁書庫
「エリナ……」
エリナは、一瞬ためらった。
そして――さらに小さな声で、付け加えた。
「もし、また眠れないようなことがあったら――」
頬が、ほんのり赤くなる。
「その、なんだ……こ、今夜は……私に……」
そこまで言って――。
自分の言葉に耐えられなくなったのか、エリナは顔を真っ赤にして口ごもった。
(何言ってるの私! こんなの、まるで誘ってるみたいじゃない!)
頭の中がパニックになる。
心臓が、激しく波打つ。
「――とにかく!」
エリナは声を荒げた。
「必ず帰ってくる! だから、安心して待ってて!」
一方的にそう言い放つと――。
彼女は、仲間を追って逃げるように走り去っていった。
黒髪が、朝日を浴びて揺れる。
その背中は――どこか、少女らしく、愛らしかった。
残されたレオンは、彼女の不器用な優しさに――思わず頬を緩めた。
(エリナ……本当に、優しいな)
心からの笑顔で、遠ざかっていく四人の背中に手を振る。
「いってらっしゃい……」
その声は――温かく、優しく、そして少しだけ――切なかった。
朝日を浴びた四人の姿が、門の向こうに消えていく。
レオンは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
◇
玄関の重厚な扉が――ゴトン、と閉まる。
その音を最後に、屋敷は水を打ったような静寂に包まれた。
カチ、カチ、カチ――。
ホールに置かれた古い柱時計の音だけが、やけに大きく響く。
レオンは玄関ホールに、ぽつんと一人立ち尽くす。
玄関に乱雑に並ぶスリッパたち。その賑やかな痕跡が胸を締め付ける。
ミーシャの言葉で一度は奮い立った心も――一人になった途端、冷たい不安に侵食され始める。
(……本当に、俺にできることなどあるのだろうか)
拳を、ギュッと握りしめる。
みんな、戦いに行ってしまった。夢を叶えるために――――。
レオンは、強く頭を振った。
(いや、違う! 俺は、もう決めたはずだ!)
自分の頬を、両手で叩く。
パンッ! という音が、静寂の中に響いた。
(ミーシャは言った。これも『重要任務』だと)
そうだ。
腐っている場合じゃない。
(俺には、俺の戦場がある)
レオンは、部屋からジャケットを取ってくると、力強く羽織った。
その時、ポケットに、何かが入っているのに気づく。
取り出してみると――。
小さな、折り畳まれた紙切れ。
開いてみると、そこには――拙い字が並んでいた。
『レオン。無理しないで。アルカナの未来は明るいんだよっ』
ルナの字だ。
いつ、入れたのだろう。
恐らく――出発前、レオンが気づかないうちに。
その不器用な優しさに、胸が熱くなった。
「……ありがとう、ルナ」
紙切れを、大切に懐にしまう。
そして――自分自身を鼓舞するかのように、固く拳を握りしめる。
「行くぞ……。必ず、答えを見つけてみせる!」
扉を開け、朝の光の中へと踏み出した。
◇
王立図書館――。
それは、このクーベルノーツが誇る知識の聖域だった。
白亜の石壁が朝日を受けて輝き、荘厳な佇まいで街を見下ろしている。尖塔にはクーベル公爵の紋章が刻まれ、正面の階段は大理石で作られている。
レオンは、その階段を一段一段、踏みしめて登った。
重厚な扉を押し開けると――。
目の前に、圧倒的な光景が広がった。
吹き抜けの天井まで続く、巨大な書架。
何万冊、いや、何十万冊もの書物が、壁一面を埋め尽くしている。
静寂の中、かすかな紙の擦れる音。学者たちの小声。ページをめくる音。羽根ペンが羊皮紙を走る音。
それらが混ざり合い、まるで図書館全体が一つの生き物のように、静かに呼吸しているかのようだった。
(すごい……)
レオンは、思わず息を呑んだ。
空気が違う。
古紙の匂い。革の匂い。乾いたインクの匂い。
それらが混ざり合い、知識の重みを感じさせる。
天井近くの窓から差し込む朝の光が、書架の間に幾筋もの光の柱を作り出している。その神々しさに、レオンは一瞬、自分が神殿に立っているような錯覚さえ覚えた。
レオンは禁書庫へ入れてもらおうと、足音を抑えながら静かに受付へと向かう。
禁書庫――それは、図書館の最奥部にある、特別な許可がなければ入れない場所だ。危険な魔術書、禁じられた知識、失われた古代の文献。そういったものが、厳重に保管されているという。
「こ、こんにちは……」
受付には、一人の老人が座っていた。
まるで蜘蛛の巣のような、白く長い眉毛。分厚い眼鏡の奥から、チラッと鋭い視線を向けてくる。皺だらけの顔は、何百年もの知識を蓄えてきたかのように、深い刻みを刻んでいた。




