103. 無情なる激流
十万の魔物。
十万の命――――。
王都の人口は、およそ三十万。周辺の町や村を含めれば、五十万を超える。
その多くが――いや、ほとんどが、この女の狂気の野望の生贄にされる。罪なき人々が、理不尽な死を迎える。
「止めろ!」
レオンが、喉が裂けんばかりに叫んだ。
「どんな理由であれ、殺人なんて肯定されない! 人の命を奪う権利なんて、神にも、誰にもないんだ!」
「はぁ?」
イザベラは、心底不思議そうに首を傾げた。まるで、幼い子供が愚かな質問をしたとでも言うように。
「人間の歴史なんて、いつだって殺し合いだったじゃない。戦争、略奪、虐殺……愚かな権力争いがずっと、ずっと繰り返されてきた。私がこれで『殺し合い』を最後にしてあげるのよ? むしろ感謝されるべきではなくて? ふふっ」
「き、詭弁だ! そんなの、ただの言い訳じゃないか!」
レオンは叫んだ。けれど、言葉が続かない。
『人を殺してはダメ』という人としての当たり前が、人間の歴史では否定されているのはその通り。倫理、道徳で説得するのではダメなのだ。では何と言えば――――?
くぅぅぅ……。
熾天使の降臨という、狂気の計画。
それを、こんな溺れかけている状況で、どう止めたらいいのか。皆目見当がつかなかった。
無力感が、レオンの心を締め付ける。歯を食いしばり、拳を握りしめるが、何もできない。何も。
【運命鑑定】があれば――。
ふと頭をよぎるが、今更そんなことを考えても、意味はない。【運命鑑定】はこの女に壊され、栄養にされててしまったのだから。
「さあ、そろそろ儀式を始めましょうか」
イザベラは、優雅に杖を掲げた。杖の先端が、まるで血のように禍々しい紅い光を放ち始める。
「貴方たちには、熾天使様降臨の証人となっていただきますわ。新たな世界の誕生を、その目に焼き付けてちょうだい。光栄に思いなさいよ!」
ブンと振られた杖とともに、貯水槽全体が不気味な紅い光に包まれ始めた。壁に刻まれた古代ルーン文字が、脈動するように次々と紅い光を放っていく。まるで、悪魔の心臓が鼓動しているかのように――。
「はーっはっはっはっは!」
イザベラの甲高い笑い声が響き渡った。
狂気と陶酔が入り混じった、恐ろしいほど純粋な笑い。それは、もはや人間のものとは思えない、悪魔の笑い声のようだった。
「さあ、もう時間ですわ!」
イザベラは、すっと杖を高く掲げた。その動きは、まるで指揮者がクライマックスを奏でさせるかのように、優雅で、そして絶対的だった。
「貴方たちは、特等席で熾天使様がこの世界を一新する様を見届けてなさい! ふふっ、楽しみでしょう?」
その言葉に、レオンたちの顔が絶望に歪む。
止められない。
このままでは、世界が――みんなが。
「ああ、そうそう」
イザベラは、まるで大切なことを思い出したかのように、にっこりと微笑んだ。その笑顔は、あまりにも無邪気で、そしてあまりにも恐ろしかった。
「ご安心なさい。すべてを見届けた後は、核を埋め込んで差し上げますわ。永遠に、神に仕える僕として……」
イザベラの瞳が、恍惚の光に染まる。
「自我も意志も必要ありませんわ。ただ、神に仕え、従うだけ。何も考えなくていい。何も悩まなくていい。それは、とても、とても幸せなことですのよ」
その言葉の意味を理解した瞬間、五人の背筋に氷のような悪寒が走った。
死よりも恐ろしい運命。
自我を奪われ、操り人形として永遠に生き続ける。
それは、死ぬことすら許されない、生きながらの地獄だ。
「ふざけ――」
レオンが叫ぼうとした、その瞬間だった。
ブゥン! とイザベラが、優雅に杖を振り下ろす。
途端、貯水槽の底から、地の底から響くような異様な音が響き始めた。
ゴゴゴゴゴゴ……!
水が、不自然に揺れ始める。波紋が広がり、やがてそれは渦となる。
最初は小さな渦だった。けれど、それは瞬く間に巨大化し、見る見るうちに成長していく。貯水槽全体を飲み込むほどの、恐ろしい大渦へと変貌していった。
「ま、待て! 待ってくれ!」
レオンが叫ぶ。けれど、その声は渦の轟音にかき消される。
ゴオオオオオオッ!
巨大な渦は、容赦なく五人を吸い込んでいく。
抗う術もない。麻痺毒で弱り切った体では、この激流に逆らうことなど到底できない。まるで木の葉のように、無力に翻弄される。運命の激流に飲み込まれていく。
「レオンーー!」
「みんなぁ!」
仲間たちの叫び声が、渦の中で交錯する。恐怖と、必死さと、諦めきれない想いが込められた声。
レオンは必死に手を伸ばした。誰かの手を掴もうと。仲間を離すまいと。せめて、せめて一人でも。
指先が、何かに触れた。
エリナの手だ。冷たく、震えている手――。
けれど、次の瞬間、激流がその手を無情に引き離す。




