102. 大地を焼く熾天使
レオンは、思うように動かない体を、怒りと意地だけで無理やり動かす。歯を食いしばり、腕を動かし、必死に泳ぐ。
浮き輪まで辿り着き、それを掴むと、力の限り遠くへ放り投げた。
「うおおおおおっ!」
浮き輪が水面を滑り、壁に激しくぶつかるとパリィンとガラスの割れるような音が響き、光が消えていく――――。
「あらあら、強引ねぇ」
イザベラは、クスクスと楽しそうに笑った。
「そんな乱暴なことをしたら、嫌われるわよ? 女の子には、自分で選択させてあげないと。そうでしょう、ミーシャ?」
その言葉には、嘲りが込められていた。まるで、子供の喧嘩を見る大人のような、余裕のある笑み。そして、確信に満ちた笑み。
「うるさい! お前にミーシャは絶対に渡さない!」
レオンはイザベラをにらみつけた。
イザベラは、その視線をゆっくりとレオンへと移す――――。
まるで、獲物を見定める捕食者のような、冷たく、そして愉悦に満ちた視線。
「ふふっ。まだまだ若いわねぇ。でも、貴方には本当に、心から感謝しなければなりませんわね、レオン・グレイフィールド君」
その言葉に、レオンの背筋に氷のような悪寒が走る。
「……なんだと……?」
レオンの声が、掠れる。喉が、乾ききっている。
「どうして、俺の名を……」
「あら、知っていますわよ。貴方のこと、全て」
イザベラは、楽しそうに微笑んだ。
「貴方の【運命鑑定】という、素晴らしい、素晴らしい『生贄』のおかげで――」
その瞬間、レオンの全身から血の気が引いた。
「ついに! 我が神との儀式の準備が、整いましたのよ!」
イザベラは、恍惚とした表情で天を仰いだ。両手を広げ、まるで神の恩寵を受けるかのように。
「お前か!」
レオンの絶叫が貯水槽全体に響き渡る。全身が怒りで震えている。
「俺のスキルを壊したのは、お前か! お前が、俺から【運命鑑定】を奪ったのか!?」
「ええ、その通りですわ」
イザベラは、あっさりと、あまりにもあっさりと認めた。その笑みには、一片の罪悪感もない。まるで、当然のことをしたとでも言うように。
「貴方のその類稀なる『未来を視る力』――それを破壊し、その膨大な運命の力を、私が吸収することで」
イザベラの瞳が、狂気の光に染まる。
「私の未来を垣間見るスキルは【預言者の天啓】スキルとなって、ついに未来を視るだけでなく、神の御声を聞く領域へと到達したのですわ!」
イザベラは、両手を広げ、恍惚と天を仰ぐ。まるで、神の祝福を受ける聖女のように。いや、狂信者のように。
「ああ、素晴らしい……! これで、偉大なる神に連なるお方をこの地に降臨させる方法が、ようやく、ようやく分かったのです!」
その声は、喜びに、狂喜に震えていた。
「貴方の絶望が、貴方の苦しみが、貴方の運命の力が、私たちの希望への最後の鍵でしたの。ありがとう、レオン君。ふふっ」
その言葉が、レオンの心を深く、深く突き刺した。
【運命鑑定】を失った喪失感。
あの、地獄のような日々。
全てが、この女の計画のための、ただの駒でしかなかった。
自分の人生が。
自分の苦しみが。
この女の野望のための、ただの材料だったというのか。
「ふ、ふざけるなあぁぁぁぁぁ!!」
レオンの絶叫が、水面を激しく震わせた。
怒り。悲しみ。絶望。憎悪。
全ての感情が、胸の奥から溢れ出し、混ざり合い、一つの叫びとなってほとばしる。
「俺の人生を! 俺の苦しみを! 勝手に人殺しに利用するなあぁぁぁぁ!!」
けれど、その叫びは、冷たい石壁に反響し――そして、虚しく消えていった。
イザベラは、ただ微笑んでいる。
その笑みは、あまりにも穏やかで――あまりにも残酷だった。
「ふふふ。おかげさまで視えたのよ」
イザベラの声が、陶酔に染まる。
「【預言者の天啓】で――熾天使さまが降臨されて、この大地を聖なる炎で埋め尽くしていく、美しい、美しい情景を……」
「セ、熾天使……だって……?」
レオンの声が、震える。
熾天使。
伝説の中にしか存在しない、最高位の天使。神の玉座の最も近くに仕える、六枚の翼を持つ天使。
その力は、世界を焼き尽くすとさえ言われている。
「そう、神のおそばに使える偉大なる天使様よ」
イザベラの声が、陶酔に染まる。
「十万の命を捧げたら、力を貸してくださるのよ? 素晴らしいでしょう?」
「じゅ、十万!?」
ルナの声が、恐怖に震えた。
「ま、まさか……そんな……」
エリナも顔を青くする。
「そう」
イザベラは、まるで楽しい計画を語る少女のように、無邪気に微笑んだ。
「私の可愛い魔物ちゃんたちが王都を襲い、愚か者たちを生贄にするの。そして、熾天使さまに降臨していただき、この大陸を聖なる炎で焼いてもらうわ。灰になった大地に、『蝕月の鷲』の信者たちだけの、清らかで美しい理想の世界を作り上げていくの……」
その言葉の恐ろしさに、五人は息を呑んだ。




