100. 蝕月の鷲
「嘘……」
掠れた声が、震えながら漏れた。
「嘘、です……そんな……そんなこと……」
ミーシャの空色の瞳から、涙が溢れ出す。信じたくない。認めたくない。けれど、目の前の現実は、容赦なく彼女の心を引き裂いていく。
「ミーシャ!」
レオンが、必死に声を張り上げる。
「しっかりしろ、ミーシャ!」
けれど、ミーシャは、もうレオンの声を聞いていないようだった。
ただ、回廊に立つ女性を見つめるその瞳には、深い、深い絶望が滲んでいた。幼い頃から慕ってきた唯一の家族。神の教えと、生きる意味を授けてくれた、かけがえのない存在。その人が、今、世界を滅ぼそうとしている。この現実を、どう受け止めればいいのか。
イザベラは、恍惚とした表情でミーシャを見下ろした。
その瞳には、慈愛とは似て非なる、歪んだ愛情が滲んでいる。まるで、大切な人形を眺めるような、所有欲に満ちた視線――。
「ああ、ミーシャ。私の可愛い、可愛い小鳥ちゃん」
その声は蜜のように甘く、しかし毒を含んでいた。
「そろそろ戻っていらっしゃい。やはり、神の教えから離れた俗世は、貴女のような清らかな魂には似合いませんわね。外の世界は汚れています。穢れています。貴女を、傷つけるだけですわ」
そこにはまるで、逃げ出した小鳥を見つけた飼い主が、傷ついた翼を折って二度と飛べないようにしてから籠に戻そうとするような、恐ろしい執着に満ちた響きがこもっていた。
「……どうして……」
ミーシャの声が、震える。全身が、恐怖と悲しみで震えている。
「貴女は、神に仕える身では……。私に、清く正しく生きることを教えてくださったのに……。なぜ、こんな……こんな、おぞましいことを……」
「ええ、もちろんですわ」
イザベラは、優雅に微笑んだ。その笑みは、まるで聖母像のように穏やかで、そして恐ろしいほど狂気に満ちていた。慈愛と狂気。その二つが、恐ろしいほど自然に同居している。
「わたくしは、神に仕える身。だからこそ、ついに神の真実に目覚めたのです! この腐りきった世界を、神の御心に適う、清く美しい楽園へと作り替えるために!」
その言葉に、レオンたちの背筋に冷たい悪寒が走る。
イザベラは、自らの杖を高々と掲げた。三日月を喰らう鷲の紋章が、まるで生きているかのように禍々しい光を放つ。
「我ら『蝕月の鷲』は、神の代行者! 堕落した人間を洗い流し、新たな創世記を始めるのです! それこそが、神から賜った聖なる使命!」
誇りに満ちた宣言が響き渡った。まるで、聖なる使命を果たす殉教者のような、揺るぎない確信に満ちた声――。
けれど、その言葉の意味を理解した瞬間、レオンの中で何かが弾けた。
「ふざけるな!」
怒声が、貯水槽全体に響き渡る。レオンの翠色の瞳が、怒りの炎に燃えていた。
「人を殺して、それが美しいだと!? 何万、何十万という命を奪うことが、それが神の御心だと!?」
イザベラは、心底不思議そうな顔で、小首を傾げた。
「あら?」
その表情には、本当に疑問しか浮かんでいない。まるで、子供に当たり前のことを聞かれて困惑する大人のような、純粋な驚き。善悪の基準そのものが、根本から狂っているのだ。
「害虫を駆除し、雑草を抜いて、美しい庭を保つのは当然のことでしょう? 庭師が、庭の手入れをして、何が悪いのかしら?」
イザベラは、優雅に手を広げた。まるで、自明の理を説くように。
「神がお作りになったこの世界も同じこと。神の偉大さを理解できぬ王侯貴族も、それに盲従する愚かな民も、神の御心に背く罪人たちも、一度すべてを洗い流さなければ、真の楽園は訪れませんわ」
「みんな一生懸命、必死に生きているんだ! 愚かだとか、罪人だとか、お前に何が分かる!」
レオンの叫びが、水面を震わせる。
「はぁ……」
イザベラは、まるで駄々をこねる子供を見るように、呆れたように肩をすくめた。
「もう何百年もこの国は何も変わっていませんわ。広がるスラムにどんどんと餓死していく子供たち。王侯貴族はただ民から搾取して享楽的な暮らしに溺れるだけ。庶民はただ、目の前の生きるための仕事を盲目的にこなすだけ……。賄賂不正は横行し、出る杭は打たれ、悲劇に目をつぶる人々……。何のために神が尊い生を与えたのか、誰も理解していない……。一生懸命に生きてさえいれば、それで良いという訳ではないでしょう?」
「確かに、この世界は完璧じゃないかもしれないわ! 愚かな部分もあるかもしれない……」
エリナが、怒りに震える声で叫ぶ。その黒曜石の瞳が、激しい憤怒に燃えていた。
「でも、それでも! あんたに人を殺す権利なんてない! 人の命を奪う権利なんて、誰にもないんだから!」
「権利?」
イザベラは、くすりと笑った。まるで、愚かな質問を聞いたとでも言うように。
「神がこの世界をお作りになったのですよ? 創造主である神のお考えに沿うように、庭を手入れして、何が悪いのかしら? 自分のことしか考えない貴族も庶民も、神の庭を荒らす害虫に過ぎませんわ。美しい楽園のために、排除されるべき存在なのです」




