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秘密兵器は医大生 MLB投手 ハブ・プルエット

作者: 滝 城太郎

学費稼ぎのアルバイトのつもりでプロ野球に片足を突っ込んだ大学生が、知恵と工夫でベーブ・ルースをきりきり舞いさせ、ヤンキースファンの大ブーイングに晒されることになろうとは・・・ もし、こんなIQ投手が現在のMLBに現れたら、日本の野球少年の価値観も変わるかもしれない。

 一攫千金を夢見てプロ野球選手を目指す者は多くとも、別の目的のために金が入用で、手っ取り早く大金を稼げる手段としてプロ野球選手を選ぶという発想は、純粋な野球好きの少年からすると“ふとどき”であるかもしれない。

 ハブ・プルエットことヒューバート・プルエットは野球少年ではあったが、人生の最終目的は馬車の事故で亡くなった父の後を継いで医師になることだった。

 とはいえ医学部に進学するためには金がかかる。そこで野球で一儲けした金を学費に充てようと考えたわけだが、この計画は神がかりとでも言うべき幸運が見方してくれたおかげでトントン拍子に進んでいった。

 まず、プルエットを夢の道へといざなう最初の扉を開いてくれたのは、カージナルスのスカウト、チャーリー・バレットだった。

 ミズーリ大学進学後も医師になる夢を捨てきれないブルエットは、地元のアマチュアチームで野球をやっていたが、投手としては二番手、三番手あたりでとてもプロの眼鏡にかなうようなレベルではなかった。そんな彼がバレットの目に留まったのはまさしく運だった。

 バレットはプルエットのチームのバッテリーの評判を聞いて試合の見学に来たところ、たまたまエースが早い回にナックアウトされたため、プルエットが急遽マウンドに送られた。しかも、後続をぴしゃりと抑え無失点のまま投げ切る好投を見せたのだ。

 バレットは行きがけの駄賃くらいに考えていたのかもしれない。「もしプロで野球をやりたければ、セントルイスに来なさい。それ相応のことはさせてもらうよ」とプルエットに声をかけてくれた。

 「上手く行けば医学部の学費が何とかなるかもしれない」そう思ったプルエットはカージナルスとマイナー契約を結び、傘下の1A、タルサ・オイラーズに入団した。一九二一年のことである。


 たまたまプロにはなれたものの、実力的には1Aでも厳しいプルエットは、試合のたびに四球を連発し、一年目は四勝七敗の成績に終わっている。これがベテラン投手だったらそろそろお払い箱にされてもおかしくないところだが、運というのは恐ろしいもので、何とメジャーからお呼びがかかるのだ。

 当時のカージナルスは同じセントルイスをフランチャイズとするブラウンズと球団事務所を共有していた。

 打のジョージ・シスラー、ケン・ウィリアムズ、投のアーバン・ショッカーというスターが揃っていたブラウンズは、ヤンキースの最大のライバルと目されていたが、球界最高の長距離打者ベーブ・ルースに散々煮え湯を飲まされており、ルースを抑えきれる左投手の補強が急務だった。そこで試しに使ってみようと思い立ったのが、左の変化球投手であるプルエットだった。

 1Aの成績でもわかるように、カージナルスもこの若手投手に大して執着していなかったため、プルエットの移籍はすんなり運び、四月二十六日のタイガース戦に早速リリーフで起用された(一回を三者凡退、一奪三振)。

 初めてヤンキース戦のマウンドを踏んだのは五月二十二日、八回一死からのリリーフだった。

 残念ながらこの試合は延長十二回にサヨナラ負けを喫したが、ルースとの対戦では、最初の打席で三振を奪い、二打席目は敬遠だった。

 リリーフ中心で好成績を残していたプルエットについにヤンキースとの首位攻防戦の大舞台での先発指令が下ったのは、六月十二日のことである。ブラウンズ首脳陣のギャンブルは見事的中し、プルエットは被安打六、失点一で見事な完投勝利を飾ったばかりか、ルースから三振三つを奪いノーヒットに抑えたのだ。

 ルースの受難はさらに続く。七月十二日の試合でも第一打席でピッチャーゴロを打った後は三打席連続三振と無名の大学生投手にまたしてもきりきり舞いさせられている。

 ルースはレベルヒッティングが中心であった当時の選手の中では三振が多い方だったが、それでも年間八十程度で今日のホームランバッターと比べると少ないくらい(大谷翔平の約半分)である。そのうえ生涯打率三割四分二厘が示すように、ほとんど穴らしい穴もなく、コントロールミスを逃さないバッティングアイと並外れたパワーによって数多くの一流投手を打ち砕いてきた。そんなルースから二試合連続で、三個の三振を奪うというのはまさしく快挙といってよく、これによってプルエットの名は全米中に知れ渡った。

 こうなるとファンもマスコミも、ヤンキース対ブラウンズ戦の勝敗より、ルース対プルエットの対戦の方に注目し始めた。

 八月二十五日の対戦もルースは三振に仕留められたが、九月十七日の第三打席にホームランを放ってようやく無安打記録にピリオドを打った。それでもこの試合、完投で勝利投手となったプルエットは、第一打席四球の後、第二打席にはルースから三振を奪っており、ルースは初めてプルエットからヒットを打つまで十三打席十打数〇安打九三振(四球二)とバットにボールを当てることさえ容易なことではなかった。


 「ルースを手玉に取る男」プルエットのウイニングショットは、当時はフェイダウェイと呼ばれたスクリューボールだった。

 スクリューボールは十九世紀末から二十世紀初頭にかけて黒人野球で活躍し、後にニグロ・リーグ結成の立役者となった殿堂入りの名投手ルーブ・フォスターが編み出した変化球である。

 このボールを初めてメジャーで放ったのが三百勝投手のクリスティー・マシューソンで、彼はフォスターの指導によってスクリューボールをマスターし、その最高の使い手として数々の栄光を手にしてきた。実はメジャー初のスクリューボーラー、マシューソンこそプルエットの少年時代のアイドルだったのだ。

 プルエットはこの素晴らしい変化球に魅せられ、マシューソン関係の書物を読み漁ってその修得に取り組んできたという。

 マシューソンは右投手で、ナ・リーグのジャイアンツに所属していたため、ルースとの対戦機会はなかった。しかも当時は左のスクリューボーラーがいなかったため、さすがのルースもその軌道に慣れるまでかなりの時間を要したというわけだ。

 もちろんプルエットもさるもので、オーバースロー、サイドスロー、アンダースローと目まぐるしく投球フォームを変えることによってルースにタイミングをつかませないようにしていた。奪三振も多いが与四球も多い(年度通算七回)のは、コントロールミスだけではなく、タイミングをずらされたルースがストライクからボールへと変化するスクリューにバットが出ず、たまたま四球を選ぶことになったケースも含まれていると推測される。

 

 メジャー一年目のプルエットの成績は七勝七敗、防御率二・三三、優勝チームのヤンキース相手に二度の完投を含む二勝一敗というのは、新人としては上出来の方だが、この成績で何度も新聞のスポーツ欄の一面を飾ったのは、ルースに対する完璧なピッチングあってのことである。

 先発で対戦しようがリリーフで対戦しようがこれほど話題になるのは、ルースが不世出の大打者であって、その人気、注目度たるや情報拡散効果が格段に違う今日のMLBのスーパースターたちでさえ足元にも及ばない。

 ルースは球界、スポーツ界という枠を超え国際的な知名度を誇るアメリカの英雄だったのだ。

 プルエット人気で盛り上がったブラウンズが、オフに特別ボーナスとして千ドルを支給したのも当然のことだった。


 一九二三年五月十六日からの対ヤンキース四連戦において、第一戦のリリーフでルースから三振を奪ったプルエットは、ヤンキース戦の相性の良さを買われて、四戦目には中一日で先発のマウンドに送られた。

 疲れの残るプルエットはルースからいきなり一発を浴びるなど、初回からヤンキース打線につかまる最悪の立ち上がりだったが、これで目が覚めたか中盤はルースを二打席連続三振に抑えるなど尻上がりに調子を上げ、延長戦までもつれ込んだ。

 やはりルースが打席に立つと燃えるのか、調子が悪くともルースの時だけは別人のような球を投げ込んだ。そしてルースもまた、これまでプルエットから打った三安打のうち二本がホームランであることからもわかるように、三振を恐れることなくフルスイングで対峙した。まさに男と男の勝負だった。

 最後は延長十回に相手投手のカール・メイズから決勝点となる三塁打を打たれて万事休したが、このシーズンここまで一勝も挙げていない投手とは思えないプルエットの熱投に観客は酔いしれた。

 この時の粘り強い投球で立ち直りのきっかけをつかんだプルエットは、六月十四日のヤンキース戦でシーズン初の完投勝利を挙げ、ルースも二打数〇安打一三振と抑え込んだ。これで両者のこの年の対戦成績も八打数で被安打二、奪三振四となり、前年に引き続き名勝負が観られるかと思いきや、これがルースから奪った最後の三振になろうとは、ファンも当の本人たちも予想だにしなかったであろう。

 七月八日のヤンキース戦で先発KOされたプルエットは(ルースは一打数無安打)、以後は中継ぎが中心となり、ルースと対戦する機会がなくなってしまったのである。


 翌一九二四年になると完全に神通力が失せてしまい、逆にルースから四打数三安打と打ち込まれてしまう。

 アマチュア時代に利き腕を故障したことがあり、以来ずっと痛みと闘いながら投げてきたプルエットにとって、メジャーで先発、リリーフの両方をこなすのは至難の業だった。それも前年に入学したセントルイス医科大学に通いながらとあっては、体力的にも限界に近かったに違いない。

 ルースに通じなくなったプルエットはもはや客寄せにもならず、シーズンオフにはブラウンズをお役御免となった。


 野球を辞めてしまうと大学に通えなくなるプルエットは、2Aオークランド・オークス時代の一九二六年に二二勝十三敗と元メジャーリーガーの意地を見せ、一九二七年にメジャー復帰を果たした。

 プルエットは落ち目のフィリーズに拾われたおかげで先発を任され、一年目とタイの七勝を挙げる一方、敗戦も十七を数えている。

 四球を連発してヒットを打たれるという自滅型のピッチングは相変わらずだったものの、弱小フィリーズにとっては最も多く三振を取れる投手でもあったため、一年限りで解雇されることだけは回避できた。

 その後もメジャーとマイナーを行き来しながら一九三二年まで現役を務めたが、通算成績二九勝四八敗程度の投手で、幾度もスポーツ欄のトップを飾ったのはプルエットが唯一の例だろう。

 ブラウンズ退団後はナ・リーグにしか在籍していないため、ルースとの対戦はなかったが、全盛期のルースをきりきり舞いさせた輝かしい実績があったからこそ、その残像が彼の商品価値を高め、足掛け十年もメジャーからお呼びがかかり続けたことは確かである。これはプルエット自身も自覚していたことで、終生自分を有名にしてくれたルースに感謝していた。

 ちなみにプルエットとルースの対戦成績は、一九二二年が十三打数二安打十奪三振、一九二三年が九打数二安打五奪三振、一九二四年が四打数三安打〇奪三振、通算では二十六打数七安打(二割六分七厘)十五奪三振となっている。

 一見すると、ルースはプルエットを苦手にしていたようだが、四球も七個選んでいるため、これを含めると出塁率は四割二分四厘に跳ね上がり、必ずしもプルエットが抑え込んでいたとは言い難い。

 ただし、ルースがこれだけ三振を喫してしまうとヤンキース全体の士気を下げる効果があったことも確かである。現代の野球では大谷やジャッジが一試合に三度の三振を喫したからといって、それが新聞の見出しになるほどのレアケースというわけではないが、それがルースだと大騒ぎになったのは、ルースが他と一線を画したモンスター級の強打者であったからだ。

 この時代のヤンキース相手に通算で四勝三敗と勝ち越していることも凄いが、対戦防御率二・二七は光る。プルエットがセンセーションを巻き起こした一九二二年のア・リーグ最優秀防御率投手のレッド・フェイバー(ホワイトソックス)が二・八〇、ナ・リーグのフィル・ダグラス(ジャイアンツ)が三・〇〇だったことからもわかるように、打高投低の時代に、チーム打率が三割を超え、最も本塁打を量産していたヤンキースをこれだけ苦しめたことを考えれば、単なる「ルース・ネメシス(ルースの強敵)」として片付けるわけにはゆかないだろう。

 制球難を伴っていたとはいえ、プルエットのスクリューボールはなかなか芯で捉えることが出来ない難球で、「UncannyFade Away(不可思議なスクリュー)」と呼ばれていた。そのため飛ぶ球使用下にあったブラウンズ時代の三年間に打たれた本塁打は五本に過ぎない。しかも、そのうち二本はルースによるものだ。

 選手時代の晩年でも被本塁打率が低かったプルエットは、三・六試合に一本の割りでしか打たれていない。

 偶然ながらジャイアンツ在籍中の一九三〇年には、後にスクリューボーラーとして一世を風靡するカール・ハッベルとチームメイトになっている。左のスクリューボーラーの先駆であるプルエットと、その大成者たるハッベルが同じベンチにいたというのも運命的である。

 このハッベルとルースの対戦が観たいという野球ファンの少年の一言がオールスターゲーム開催のきっかけとなり、一九三四年のオールスターで両者は激突した。そしてハッベルは見事にルースを三振に切って落とし、ナ・リーグのエースとして名声を築いてゆくのだ。


 プルエットは一九三二年までに医学部を卒業し、外科医として第二の人生を歩み始めた。

 才能を惜しんだジャイアンツ監督マグローから現役復帰の声がかかっても、彼が首を縦に振ることはなかった。

 そもそもプロ野球は医学部の学費を賄うための手段でしかなかったのだから。

 元ア・リーグ会長のボビー・ブラウンもプルエットと似たケースで、ヤンキースの三塁手時代からオフに医学部に通い、引退後には名外科医として腕を振るった秀才だった。彼らのように医学部に籍を置きながら、メジャーでプレーする選手がいるのだから、アメリカの野球は選手のスケールもデカい。


 ハブ・プルエットはセントルイス近郊で開業医として自立したが、そんな彼の姿を見て育った息子のドンも孫のクリスも外科医となった。

 「私たち(プルエット家)が、ここにこうしていられるのは、ベーブ・ルースのおかげです」

 父の後を継いだドンもこう語っている。 

 

 プルエットは現役時代にルースと会話する機会はなかったが、二年目のシーズンに入るとルースの方からグラウンドでアイコンタクトしてくるようになった。微笑みながらウインクを飛ばしてきたところをみると、ルースもプルエットとの対戦を楽しみにしていたのだろう。

 ルースが癌で今際の床についた一九四八年のある日、プルエットはルースの病室を見舞い、二人は初めて言葉を交わした。

 「私に医学部を卒業させてくれたあなたに感謝の意を捧げたかった」とお礼を述べたプルエットに対し、ルースはこう答えた。

 「もし君のような投手がもっといたら、誰も私の名など知ることはなかっただろう」と。


アメリカの医学部は日本のような大学の医学部受験というスタイルではなく、理系の大学を卒業後に新たにメディカルスクールに通うというものである。したがってプルエットがルース相手に活躍していた時期は厳密に言えば、大学生時代であり、医学生となってからは通用しなくなった。それでも医学部の膨大な学習量を考えると、MLBのマウンドに立ちながら医学部を卒業するというのは、甲子園優勝投手が共通テストで東大に進学し、六大学野球を経てドラフト1位指名を受けるよりも難易度は高いと思う。

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