01 魔女と勇者の再会
花河岸。
本来はメジスリ河岸という名なのだが、週二日に花市が開かれていたため、いつしか人々は、メジスリ河岸のことを花河岸と呼ぶのが当たり前になった。
とはいえ花は贅沢品だったので、花がついた植物よりも鉢植えの灌木のほうが多い。
花市の常連だった夫人は、いつかは花を買いたいと思いながらも今日も観葉植物をたくさん買い込んでいた。
夫人が考える花とは、花をつける植物ではない。摘み取った花だけで構成された花束である。
(そう、例えばあのような……)
夫人の夢を体現したような鮮やかなスミレの花束が視界に入り、思わず目を奪われる。
あの素晴らしい花束を手に入れられたらどんなに幸せだろうか。
そして、その幸せを手にできている人間が憎たらしくなった。
(きっとお金はあっても心は貧乏で性格も悪くて容姿も優れてないに違いない)
悔しさからそんなことを思って、是非ともその面を拝んでやらねばという謎の使命感に駆られてしまう。
花束に集中していた視線を持ち主へと移すが、夫人は「あっ」と声を上げてしまった。
それは想像通りといった喜びではなく、驚きだった。
彼女の理性がとっさに手で口をふさがせることに成功したが、声はもれてしまう。
「ドーレリャン=ローヴィル大公!?」
二人の距離が思ったより近かったのと、夫人が小声であったため、その呟きを拾ったのは、呼びかけられた相手だけだった。
目が合って、しばしの沈黙ののち、ジル・ド・ドーレリャン=ローヴィルはにこりと笑った。
ついで、「しっ」と内緒話のように人差し指を口唇へと当てる。
「どうかご内密に。お忍びなのですよお嬢さん」
ジルは青玉の瞳を細め、茶目っ気のある笑顔と共にウィンクをした。
金色ののど当てのど当て、青い上衣、剣帯に差した直刀と軍服を着用したままではあったが、フード付マントを目深にかぶっていたため、近づかなければ夫人も気がつかなかっただろう。
絹糸のような亜麻色の髪で縁取られている整った顔立ちは、幼少の頃に母親から見せてもらった似姿のままであり、彼が長くその姿を保っている証拠でもある。
伝説の勇者なんていかつい称号持ちとはとても思えない柔和な笑顔に、幼いながら胸をときめかせたものだ。
「まぁ、花束を手にお忍びで会うなんて、どんないい人なのかしら?」
使命感をころりと忘れてロマンスに胸をときめかせる夫人に対し、ジルは申し訳なさそうに苦笑した。
「いえ、残念ながらこれは自分の為で」
〈閣下!!〉
否定の言葉を紡ぎかけるも、脳内に突如響いた呼びかけに動きを止める。
声の主は直属の配下であるフローラン・ド・デュノワ伯だった。
緊急事態が発生した時のために持たせておいた魔法の宝珠を使ったのだろう。
一回限りだが思念を伝えられる特殊な宝珠のため、滅多のことでは使わないように言い含めておいたのだが。
〈なにがあった?〉
フローランも馬鹿ではない。
ジルの脱出はこれが初めてではないし、度々起こることだ。
その程度で使う魔法道具ではないと区別はついているはず。
であるならば、考えられる可能性は一つ。
緊急事態が起こったのだろう。
だからこそ、その前提での返事だった。
〈ご無事ですか!?〉
〈ん? あぁ、無事だが〉
〈よかった! 実は先ほど怪しい二人組が王城に現れまして、閣下の居場所を教えろと……しかもやつら魔術を使っていました〉
〈魔術? 珍しいな。教会の者か? それとも秘密結社の?〉
〈それが、詠唱らしきものを聞かなかったので……油断しました〉
詠唱は魔力を練り上げる為に必要だった。
精神を統一させ、魔力の純度を上げ、世界に漂う魔素に協力を乞うために必要なプロセス。
唱えるものの系譜によって詠唱内容は変わる。
だからこそ、詠唱を聞けばどこに属しているか大抵わかるのだが、唱えなかったとなると相当高位の者か、考えたくはないが詠唱が必要ないぐらい初歩的な魔法にフローランがひっかかったか。
〈顔は見たか?〉
〈それが、美しい男と幼女でした〉
「は?」
「え?」
予想外の回答に思わずこぼれ落ちてしまった言葉だったが、先ほどまで会話していた夫人が反応してしまった。
いえ、こちらの話で、とジルは慌ててその場から離れる。
〈美しい男に幼女とは……不思議な組み合わせだな。私の知り合いにはいないぞ?〉
〈御身に何かあっては……どうかすぐにお戻りを〉
本気で身を案じているのだろう。
焦りが混じる声音に、しかしジルは含み笑いを返した。
〈くく、相変わらず心配性だな。この私を害せるものなどそうはおらぬ〉
先ほどまで夫人に見せていた柔和な笑みとは程遠い好戦的なそれを浮かべながら笑い続ける。
世界が平和になりその姿を見せる機会がなくなったからだろう。
温和な紳士と評されているジルだが、魔王を倒した勇者という唯一無二の称号を持つ男である。
中身は実に好戦的で、自分の能力に絶対の自信を持っていた。
〈しかし〉
〈それに、今日は大事な友との先約がある。そう簡単には帰れぬな〉
〈閣下!!〉
フローランのそれ以上の発言を許さないとばかりに、ジルは指をぱちんと鳴らすと、一方的に宝珠の効果を消し去った。
(さてと、ずい分と時間をとってしまった。急がねば)
ため息を一つもらして、空を見上げる。
中天まで上った太陽はもうそろ傾きを見せ始めている。
これから向かおうとしていた地はさほど遠いわけではないが、人間には未開の地とされている場所だ。
先住民たちへ儀礼的な挨拶をして踏み入れなければ、例えジルとて敵とみなされかねないので、それなりに準備と神経を使う。
急く気持ちのまま一歩踏み出せば、くい、と裾を引かれる。
(先ほどの夫人がついてきたのだろうか? めんどうな)
一瞬、眉間に皺を寄せて、しかしそんな態度はおくびにも出さない完璧な笑顔を浮かべ振り返った先には誰もおらず、思わずきょとんと目をみはる。
「こっちだ。こっち」
次いで、下から聞こえる声に視線を下げれば、白いドレスを着た可愛らしい幼女がつぶらな眼差しをジルへと向けてきていた。
光を弾く銀の髪に淡く光っているかのような紫水晶の瞳。
在りし日の友の面影を見つけ、ジルは硬直した。