魔女は死ぬことにした
「しっしょーう!」
「師匠?」
「お兄さま!」
「ジャンヌ~?」
複数の声は皆、一人の人物に向けられたものだった。
脳内で響く声を魔法で遮断して、ジャンヌは一人物思いにふけていた。
魔王討伐から更に三〇〇年が過ぎていた。
時代も人も価値観もだいぶ変わった。とはいっても、友から伝え聞く程度でしか知らないが。
御年四一七。神の祝福で肉体は一七のままだが、精神はだいぶ摩耗していた。
そう、長くはないだろう。
そうはいっても、普通と比べれば大分生きた。生きすぎだ、というぐらい生きた。
あの当時、同じように神の宣託と祝福を受けた仲間たちも、時代と共にそれぞれ道を違え、あるものは変わらず国を支え、あるものは神に召され、あるものはさらなる冒険を求め旅立った。
彼女もそろそろ選択の時が来たのである。
「人より長く生き、より多くの魔術を研究できたし、幸いにも四人の弟子を育てられた」
彼女が表舞台より姿を消すことになった主な理由である弟子たちも、すでに立派に独り立ちしそれぞれのコミュニティで活躍している。
今のように、師匠の気配が少し消えた程度で騒ぐたてるぐらいには過保護だが、今の自分は彼らから見ればか弱き老人だから仕方のないことだろう。
(そう、きっと、親離れできていないなんてことはないはず。うん。)
なかば自分自身に言い聞かせるようにうなずくと、意識を切り替えて顔を上げる。
ジャンヌの目の前には三〇〇年前、彼女が自ら氷漬けにした魔王がいた。
光を失った双眸では視認することはできないが、間違えようのない気配に少し身を震わせる。
この魔王の存在は常に彼女の悩みの種だった。
古の生命体である魔王の存在そのものを消滅させる力は勇者一行にはなく、封印が精一杯だった。
それがいつか解けてしまうのではないか。その考えがジャンヌをいつも不安にさせた。
だからこそ研究に研究を重ね、今日この日を迎えたのだ。
どうせ死ぬならその前に、ドーレリャンの偉大なる魔術師の集大成である封印を施して逝こうと思っていた。
「最後の魔術、お主と心中することになるわけだが、まぁ、悪くない人生だったぞ」
魔界の最下層、誰にも知らせず、誰にも見送られず逝く人生だろうが、それはジャンヌの紛れもない本音、だったはずだ。
心中に去来する寂しさに、ジャンヌ自身戸惑いを感じて義手で胸をおさえる。
(何を迷う?)
世界を守り、仲間もでき、弟子もできたではないか。他に足りぬもの。
「……そういえば、ついぞ女扱いされなかったな」
女として愛され、子を産み、育てる。
(確か、恋、というのだったかな?)
魔王を討伐するまではそんなこと気にしてなどいられなかった。むしろ、不要なものだった。
平和な世が訪れた後は、意図せず性別を間違われ、弟子たちにもなぜか勘違いされていた。
失った双眸を隠すために仲間に作ってもらった装備品で目元をおおい、鎧のような義手をつけていたとはいえ、体のシルエットから女性と判断されてもおかしくないのだが、頑なにジャンヌを男と信じて疑っていない弟子たちに呆れたものだ。
しかし、今にして思う。
(なぜだ?)
「女扱いしたくなかったとか? いや、しかしそれにしても」
感じる違和感に首をかしげるが、過ぎたことだと頭をふる。
「馬鹿なことを考えていないで、集中せねばの」
すう、と深呼吸を一度。最後の詠唱を紡ぐ。
形成される複数の魔法陣は虹色に輝き、純度の高い魔力が練り上げられていく。
魔力と共に体中の生命力が魔法陣に吸い取られていくのを感じて、意識を途切れさせないように足に力を入れながら、ジャンヌは最後まで唱えきった。
瞬間、宙に浮き明滅していた魔法陣から虹色の力が溢れ、ジャンヌは肌で場一帯に力が満ちるのを感じる。
ドーレリャンの魔術師、人生最後で最大の魔術はたしかに成った。
それに満足して、彼女の意識はぷつりと途絶えた。
「まったくもってナンセンスだ」
意識を失ったジャンヌが初めて耳にした言葉は、実に残念そうな呟きだった。
「最悪の目覚めだ。しかし最高の目覚めでもある」
誰だかわからない呟きは、話し相手など求めてないのか。独り言を続ける。
ジャンヌはぼやけてピントの合わない視界に苦労しながら目をこすろうとして、いや、待て。なぜ見える? と戸惑う。
ピントが合わなかろうが、そもそも見えること自体がかつての自分ではおかしいのだ。
しかも、慣れ親しんだごつごつとした義手の感触もなく、徐々にクリアになっていく視界で腕を見てみれば肌色が見える。
まだうっすらえくぼが残る幼い手。
脳で思ったままに動く手はそっと、ジャンヌの頬をなぞり、輪郭上にある銀の髪にふれた。
「……見える?」
発する声はやや高い。鈴の音のようだ。それにまたびっくりする。
「神がわしに新たな肉体をお与えくださったのか?」
「んなわけあるか。お前を神に渡すわけがないだろう」
はやる心を落ち着かせようと自分なりに分析した状況を言葉にすれば、即座に否定された。
先ほどから独り言を言っていた主に、である。
そこでやっと声の主を視界におさめる。その瞬間、ジャンヌは絶句した。
「……ッ! 魔王!」
永遠に解けぬ氷で封印されていたはずの魔王が彼女を抱きかかえていたからだ。
「起きたか」
一方のルシファーは、ごく当たり前といった風に笑い返してきた。
一○○年戦い続け、そこから更に三○○年己を封印した相手に対する態度とは思えない気軽さである。
ジャンヌは混乱した。
「ではここは天国ではない?」
「残念だったな。地獄だ」
「……っ」
「さて、我が妻も起きたことだし、そろそろ動き出すか」
「待て誰が妻だ! 一体何がどうしてこうなっている?」
ジャンヌを抱えたまま動き出すルシファーの姿に慌てて辺りを見回す。
ルシファーを閉じ込めていた氷は砕け、今や見る影もない。
封印を強化したはずが砕けるとは、自分の半生以上かけた研究は一体何のためだったのか? とジャンヌは頭を抱える。
「意外と解くのに時間がかかったな。そろそろ解けると思っていたタイミングでお前が再封印しにくるものだから驚いた」
「ではわしの再封印は間に合わなかったのか?」
「そうだ。まさか自分の命までかけて俺を封印しようなどナンセンスだぞジャンヌ。目覚めたら妻が死んでいるなんて最悪すぎる。結果として生きているから最高の目覚めとなったが。運命だな」
「妻じゃない……なぜわしは生きている?」
例え間に合わなかったのだとしても、確かに一度発動していた魔法はジャンヌの生命力を奪っていったはずだった。
ジャンヌの疑問に対し、たいしたことではないといった風にルシファーは笑った。
先ほどからよく笑う。楽しくて仕方がないといった風に。
「それはだな。俺が生き返らせたからだ。妻だからな」
「だから妻じゃない。どうやって?」
「俺様を誰だと思っている? 神の不倶戴天の敵にして破壊の主、ドラゴンと呼ばれる大いなる獣、地獄の王ルシファー様だぞ」
胸をはるルシファーに白い目を向けて、ジャンヌはため息をついた。
「欠けていたお前も美しかったが、揃ったお前もまた美しい」
「わしが幼くなっているのはなぜだ?」
(おそらく肉体的には一〇ぐらいだろうか?)
昔の記憶と照らし合わせながら、こぶしを開いたり閉じたりと動作確認してみる。
活動に支障はないが、リーチは短いし魔力体力的にも心配が多い。
「決まっている。逃がさないためだ」
「殴っていいか?」
「あはははは! すでに殴っているではないか!」
抱きかかえられていることを逆手にとって魔力を込めて握った拳を顔面にたたきつけたが、見えない障壁にさえぎられる。
(姑息な)
「むかつく」
「まぁまぁ、せっかく若返ったことだし、今度こそ我と添い遂げようぞ」
「ごめんだ。第一、わしとお主は敵だ敵!」
「昨日の敵は今日の友と言うではないか?」
短い手足をバタバタと動かして抵抗するジャンヌをものともせず、ルシファーはぱちんと指を鳴らすと身支度を瞬時に整える。
ぶかぶかになってしまったジャンヌの服は、体のサイズにあった、しかし普段の彼女であれば選ばない銀糸による精緻な刺繍が施された可愛らしい純白のドレスへと変化した。
ルシファーの服も、戦闘の後を伺わせるところどころ裂けたものから、上下とも新品同様の装いへとなった。
煌めく夜空のような裏地のロングコートを肩にかけ、金糸の刺繍とボタンがついたシャツとベストに長ズボン。
全身黒い為わかりづらかったが、近くで見ればどれも上等なつくりに見えた。
さすが地獄の頂点といったところだろうか。
「お主、それでいいのか! 仮にも魔王じゃぞ!」
「まぁな……だが状況が変わった」
「?」
聞かせようと思ったわけではないのか。
独り言に近い囁きを落とし、どこか遠くを睨むように目を細めた後、ルシファーは一瞬にして表情を笑顔へと切り替えた。
「幸いと地獄には俺の後釜を狙う野心家はたくさんいるから安心しろ。すぐに新たな人類の敵は現れるさ」
「微塵も安心できないんだが!?」
耳元で叫ぶジャンヌを気にもせず、ルシファーは今一度ぱちんと指を鳴らす。
「さぁ、ハネムーンの時間だ」