泥濘の胎児.8
蓮華たちがこの地区に滞在してから、早くも数日が過ぎようとしていた。
蓮華は翠と共に、この地区でしか手に入らないような珍しい品物などの仕入れに精を出していた。
蓮華は暇ができると、アルルに会いに例の飯屋を訪れていた。それはいつしか、蓮華にとってささやかな日課となっていた。
「蓮華! いらっしゃい。こっち、こっちにどうぞ」
朝の早い時間に店を訪れると、アルルがぱっと顔を輝かせ、小さなテーブルを拭く手を止めて笑顔で出迎えてくれた。その屈託のない笑顔に、蓮華の心も自然と軽くなる。
「ありがとう、アルル」
礼を言って席につくと、蓮華は早速鞄から小さな包みを取り出した。前の地区で手に入れた、素朴な焼き菓子だ。
「ありがとう、一緒に食べよ。飲みの前を持ってくるね」
アルルは目を輝かせて受け取ると、店の奥から飲み物が入ったコップを二つ持ってきた。
「それで、仕入れの方は順調?」
「一応ね。翠はすごく難しい顔で時間をかけて品定めしてる。私が仕入れた物は翠曰く『……こんなガラクタどうする気?』って真剣な顔して言ってくるから困っちゃうわよ」
蓮華が翠の真似をして答えると、アルルは吹き出して笑った。
そんなアルルの笑顔を見ると、蓮華は腹の奥が温かくなる。
アルルは、店が本格的に忙しくなる前のこの僅かな時間に、蓮華から聞かせてもらう外の世界の様々な話を何よりも楽しみにしていた。
蓮華が語る、見たこともない風景や出会った人々の話は、アルルの狭い世界を鮮やかに彩ってくれるのだ。
「……蟲窟の色々な所に行って、蓮華は本当にすごいね。私なんか、この地区から出たこともないのに……」
アルルは心からの尊敬を込めた眼差しで蓮華を見つめた。
「ううん、翠がいるからだよ。私一人じゃ、きっと何もできないもの」
蓮華は少し照れくさそうに首を横に振った。
「翠さんも、もちろんすごいけど……やっぱり私は、蓮華がすごいと思うな。うまくは言えないけれど、蓮華には何かこう……きらきらした、特別なものが備わってるって感じがするんだ」
そう言って、アルルの白い頬がほんのりと桜色に染まった。その言葉は、蓮華の胸の奥をくすぐったく温めた。
その時、背後で店の古びたドアが重々しい音を立てて開いた。びり、と空気が震える。
ギアマンテだ。
「よぉ、アルル。今日も精が出るな。……おや、お嬢ちゃんもご一緒か」
ギアマンテは、いつものようにリリィを影のように従え、店に入ってくると、蓮華たちのテーブルに気だるげな視線を投げた。
「……わたし、蓮華って名前なんですけど」
蓮華は、その馴れ馴れしい呼び方に少しむっとして抗議した。
「はは、まぁそんなカッカすんなって。俺にとっちゃあ、アンタはいつまでもお嬢ちゃんだよ」
ギアマンテは悪びれもせず肩をすくめた。
「ギアマンテ様、今日はどうかなさったのですか?」
普段、こんな時間に彼が顔を出すことは珍しい。アルルは不思議そうに小首を傾げた。
「いや、なに、大した用事じゃねえんだがな」
ギアマンテは相変わらず掴みどころのない飄々とした態度で煙草に火を点けると、ふうと紫煙を吐き出した。
「近頃、お前さん、そこの嬢ちゃんと随分と仲が良いじゃねえか。そこでだ、俺からのささやかな提案なんだが……たまには一日くらい、仕事を休んでその嬢ちゃんと二人で出かけてきたらどうだ? 息抜きも必要だろうよ。なあ、お嬢ちゃんもそう思うわな?」
ギアマンテは、にやりと蓮華に同意を求めるような笑みを向けた。その瞳の奥には、いつものように計算高い光がちらついている。
「で、でも……お店が……それに、蓮華だって仕入れで忙しいんじゃない?」
アルルは戸惑い、視線を泳がせた。休みをもらえるのは嬉しいが、店の仕事や店主の機嫌を考えると、素直に喜べないのだろう。
「いいじゃねえか、アルル。たまには羽を伸ばしてこい。お嬢ちゃんも、アルルがいれば品物の仕入れの役に立つんじゃねえか、だろ?」
ギアマンテはチラリと蓮華に目をやった。
「そうね、アルルが案内してくれると助かるわ」
二人のやり取りを聞きつけてか、店の奥からあのカエル顔の店主がのっそりと現れ、「一日くらいなら構わんぞ」と意外にもギアマンテの提案に賛同した。
「俺としては、代わりの奴を一人寄越してくれりゃあ、それで文句はねえぜ」
店主はギアマンテにだけ聞こえるような声で付け加えた。二人の間には、蓮華たちの知らない繋がりがあるようだ。
「ほら見ろ、店主のおっさんもこう言ってくれてるんだ。一日くらい、思いっきり楽しんでこいよ。それに、アルルの代わりなら、心配いらねえ。ちゃんとここにいるじゃねえか」
ギアマンテはそう言って、背後に影のように控えるリリィの肩を無造作に掴んだ。
「リリィ、お前、一日アルルの代わりにこの店で働いてやれるよな?」
有無を言わさぬ、まるで命令のような口調でギアマンテはリリィに労働を言い渡す。
「…………はい」
リリィは俯いたまま、消え入りそうなほど小さな声で、かろうじてそう答えた。その細い肩が、ギアマンテの手に掴まれたまま微かに震えているように蓮華には見えた。
表情は長い前髪に隠れて窺えないが、その声には諦めと、どこか押し殺したような響きがあった。
(本当に大丈夫なのかな……あんなに弱々しいのに……)
蓮華は、リリィの痛々しい姿に胸が締め付けられるような思いがした。
「よし、これで決まりだな。アルル、行っておいで。この地区の面白いところでも、お嬢ちゃんに案内してやるといい」
ギアマンテは満足そうに手を叩いた。
「は、はい! ありがとうございます、ギアマンテさん! 店主様も!」
思いがけない休日に、アルルは戸惑いながらも嬉しそうに顔を輝かせ、「すぐに用意をしてきます!」と軽い足取りで店の奥へと消えて行った。
「……いい子だろ?」
アルルが店の奥へと消えたのを見計らって、ギアマンテは蓮華にぽつりと言った。その声には、先ほどまでの棘が少し和らいでいるように感じられた。
「えぇ、とっても……素直で、優しい子だと、思います」
蓮華は正直な気持ちを答えた。
「あの子はな、花なんだよ」
ギアマンテは、窓の外の薄汚れた空を眺めながら、独り言のように呟いた。
「……花?」
蓮華は、その唐突な言葉の意味が分からず、聞き返した。
「そう、花だ。今はまだ、硬い蕾のままかもしれねえがな」
ギアマンテは蓮華の方に向き直ると、どこか試すような目で彼女を見据えた。
「お嬢ちゃんなら……あの子を綺麗に咲かせてやれるかもしれねえ。そう思って、今日のこのお膳立てをしたのさ」
「……意味、わかんない」
蓮華はますます混乱した。ギアマンテの言葉は、まるで謎かけのようだ。彼が自分に何を期待しているのか、全く見当もつかない。ただ、その瞳の奥に宿る光が、単なる気まぐれではないことを物語っていた。
支度を終えたアルルが、店の奥から駆け足で戻ってきた。
「お待たせしました、蓮華!」
いつも薄汚れた仕事着のアルルが、今日は洗いざらしの簡素なワンピースを身に着けていた。髪も丁寧に結い上げられ、心なしか表情も生き生きと輝いて見える。
いつもと全く雰囲気が違うアルルに、蓮華は少し戸惑いながらも、その可憐な姿に見とれてしまった。
「うん。それじゃ、行こっか」
「はい。リリィ、後はお店のことをよろしくお願いね」
アルルはリリィに明るく声をかけた。
「……おう、せいぜい楽しんできな」
リリィの代わりに、ギアマンテがぶっきらぼうに答えた。
リリィは俯いたまま、アルルのワンピースの裾を、羨むような、あるいは何か別の感情を押し殺すような、複雑な瞳でじっと見つめている。
その視線に気づいた蓮華は、また胸の奥がちくりと痛んだ。
「行ってきます!」
アルルは蓮華の手を引いて、期待に胸を膨らませながら店を飛び出した。
こうして、ギアマンテの奇妙な計らいによって、アルルの束の間の休日が始まったのだった。