泥濘の胎児.3
店を出ようとした二人の背中に、店主の男がぽつりと言葉を投げかけた。
「――」
「何かしら……?」
翠は訝しげに聞いた。
振り返るとカエル顔の店主の男の姿は店の奥へと消えていた。
教えてもらった宿屋は、飯屋からそれほど遠くもないが、近くもないという絶妙な距離にあった。
日に焼けたトタンや、そこかしこに穴の空いた材木を寄せ集めた壁は、まるで出来損ないのパッチワークのようだ。これでも、この地区では比較的マシな建物なのだろう。
宿屋の入り口の脇に打ち付けられた、錆びた鉄製のシンボルマークに翠は目をやる。
『蟲窟宿屋連合』
蟲窟の各地区に点在し、最低限の安全と寝床を提供する安宿の証だ。
蓮華は、その下に掲げられた、蚯蚓がのたくったような奇妙な文字で書かれた看板をジーッと見つめた。
「ねぇ翠、これ、なんて書いてあるの?」
「……こんな文字が読めたら、行商人なんてやめて学者にでもなっているわ」
翠はシンボルマークを顎でしゃくって、呆れたように言った。
「宿の名前なんて解読不可能だけれど、『蟲宿連』の印があるから問題ないわ。少なくとも野盗に寝首を掻かれる心配はないでしょう」
ギィ、と立て付けの悪いドアを開けて中に 入る。
「ごめんください」
宿の中は薄暗く、湿気と埃が混じったような黴臭い匂いが鼻をついた。
「……いらっしゃい」
入ってすぐの受付カウンターの奥から、男が気だるそうな声で応えた。帳簿らしきものから顔も上げない。
二人はカウンターに近づくと、翠が手慣れた様子で話を進めた。
「部屋を借りたいの。二部屋。滞在日数は未定だから、料金はその都度清算でよろしいかしら?」
「……構いませんよ」
男はそこでようやく二人をチラリと見ると、すぐに興味を失ったように鍵を二本、カウンターに滑らせた。
翠と蓮華はそれぞれ宿泊料を支払って鍵を受け取ると、軋む階段を上り、割り当てられた隣同士の部屋へと向かった。
「それじゃ、また後で。あまり気を抜きすぎないようにね」
翠はそう言い残し、自分の部屋のドアを開けて中へと消えた。
蓮華も受け取った鍵で、目の前の古びたドアを開けた。
部屋の中は、予想通り狭く質素だった。
粗末なベッドに、テーブルと椅子が一脚ずつ。
窓の外の喧騒が、壁の隙間から微かに聞こえてくる。
羽織っていたローブを椅子に無造作に掛けると、ベッドに深く腰掛けた。
板張りの上に薄い布団が敷かれただけのベッドは、少し腰を下ろしただけでギシリと悲鳴を上げる。寝心地は到底良さそうにない。それでも、冷たい地面の上で野盗の気配に怯えながら夜を明かすよりは、遥かにましだった。
「……疲れた」
ぽつりと呟き、蓮華はベッドに倒れ込む。仰向けになり、ゆっくりと両腕を上げた。
白い肌の上を、まるで生きているかのように蠢く、おびただしい数の百足が絡みついたような刺青状の痣。蓮華は、その呪いのような痣を、忌々しげに、そしてどこか悲しげに見つめた。
この痣がある限り、自分は――。
重くなる瞼に抗えず、蓮華はそのまま浅い眠りに落ちていった。
窓の隙間から差し込む夕陽の赤い光が顔を撫で、蓮華は目を覚ました。
だらしなく口の端から垂れた涎を、手の甲で乱暴に拭う。一時間ほど眠ってしまったようだ。
ローブを羽織って出かける支度をすると、部屋を出て隣の翠の部屋のドアを、軽く二度ノックした。
「……」
返事はない。やはり出かけた後か。
翠は夜の時間以外、滅多にまとまった睡眠を取らない。
「決まった時間に寝て、決まった時間に起きるのは行商人の基本」と、蓮華は耳にタコができるほど聞かされている。
部屋に一人でいてもすることがないので、蓮華は自分の部屋の鍵を閉めると、階段を降りて受付に向かった。
「ちょっと出かけてきます」
「はいよ」
受付の男は、やはり気だるそうに読んでいた本から目を離さずに答えた。
「あ、そうだ。アンタの連れから伝言だ。『三時間後くらいに昼間の飯屋で』」
男は思い出したように付け加えた。
「三時間後……。翠は……いえ、私の連れは、いつ頃に出ていきました?」
「さてねぇ……一時間ほど前かな。部屋に荷物を置いたら、すぐに出ていったようだったぜ」
蓮華は軽く礼を言って宿屋を後にした。
夕刻の路地は、日中の淀んだ熱気が幾分か和らぎ、少しだけ涼しい風が吹いていた。