泥濘の胎児.10
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無限の蟲窟 泥濘の胎児.10
成れの果て
成れの果て
2025年6月9日 14:09
「結局のところ、この閉鎖的な地区では商売にならなかったわね。明日にはこの地区を発ちましょう」
早朝、蓮華の部屋に入ってくるなり、翠は窓の外に視線を向けたまま、淡々とそう告げた。
「えっ……そ、そんな、急すぎるよ」
突然の旅立ちの宣告に、蓮華はベッドから飛び起き、狼狽えた声をあげた。
「これ以上、品物を仕入れたところで、次の地区まで運べる量にも限りがあるわ。それに、商売にならない以上、ここに滞在する理由なんてないでしょ。路銀が尽きてしまうわよ」
翠のもっともな返答に、蓮華は何も言い返せなかった。
俯き、シーツを強く握りしめる。
そんな蓮華の様子を、翠は静かに一瞥した。
「……蓮華。あの子に、ちゃんとお別れを言って来なさい」
その声には、行商人としての非情さと、蓮華の心を深く理解する者としての、不器用な優しさが同居していた。
「……うん」
蓮華は小さく頷くと、重い足取りで宿屋を出て、一人、アルルの働く店へと向かった。
店へ向かう途中の、粗末なバラックが立ち並ぶ入り組んだ路地。その薄暗がりで、蓮華は会いたくない人物と顔を合わせた。
「よぉ、お嬢ちゃん。随分と暗い顔して、どうしたよ?」
壁に寄りかかり煙草を燻らせていたギアマンテが、ニヤニヤと声をかけてきた。
「……明日、ここを発つの。あなたには、何の関係もない話だけど」
蓮華は、この行き場のない、胸を掻きむしるようなモヤついた気持ちを、苛立ちと共にギアマンテにぶつけた。
「……へぇ、そうかい。まぁ、達者でな」
ギアマンテは相変わらずの軽薄な態度で肩をすくめてみせる。
彼の背後では、影のように佇むリリィが、長い前髪の隙間から、感情の読めない瞳で蓮華をジーッと見据えていた。
蓮華は彼らを無視し、その横を通り過ぎようとした。
「……アルルが、悲しむだろうよ」
背後からかけられたのは、独り言のような、静かな声だった。その一言が、見えない楔のように蓮華の足をその場に縫い付けた。
心臓が、嫌な音を立てて強く脈打つ。
蓮華が動けずにいると、ギアマンテはゆっくりとこちらに体を向けた。
その顔からは、いつもの人を食ったような笑みが消えている。
「アルルは、一途な娘だ。哀れなくらいにな。……まあ、少々頑固すぎるところもあるがな」
いつになく真剣な、どこか遠くを見るような表情で、ギアマンテはそう話した。
「……」
「あいつがどんな選択をしようが、俺はそれを否定するつもりはねえ。あの娘の人生だ。誰にも、邪魔する権利はねえのさ」
「ギアマンテ……」
意外な言葉に、蓮華は思わず彼の名前を呟いていた。
「今日もバカみてえに真剣な顔して、お嬢ちゃんが来るのを心待ちにしてるんじゃねえのか? ……行ってやんな」
そう言って、ギアマンテは再び壁に背を預けた。
彼の言葉が、不思議と蓮華の凍りついた心を少しだけ溶かし、重かった足に力をくれた。
店に到着すると、ギアマンテの言った通り、アルルは一生懸命に開店前の準備に精を出していた。
店の前で、覚悟を決めきれずに固まる蓮華を見つけたアルルは、ぱっと顔を輝かせたが、すぐにその沈んだ表情に気づき、心配そうに駆け寄ってきた。
「蓮華! おはよう……浮かない顔して、どうしたの? 何かあったの?」
「……」
「とりあえず、中に入って。まだ誰もいないから」
アルルは、何も言えない蓮華の手を優しく引き、店の中へと招き入れた。
いつもと変わらないアルルの優しさが、今は蓮華の胸に鋭く突き刺さる。
開店前の静まり返った店内で、蓮華とアルルは二人きりだった。
蓮華はアルルに促されるまま、椅子に力なく腰を下ろす。
「で、どうしたの? 話して?」
蓮華を心から想い、心配してくれるアルルの、真っ直ぐで曇りのない瞳。それに見つめられると、蓮華はたまらなく込み上げてくる愛おしい気持ちと、それを失うことへの絶望で、今にも気が狂ってしまいそうだった。
「……アルル」
明日、ここを発つ。そう、言わなければ。頭の中では分かっている。でも、唇が、声が、蓮華の意志に反して動かない。
行商人は根無し草だ。出会いと別れは、慣れているはずだった。
でも、アルルは違ったのだ。
『亡きの子』である自分を、温かく受け入れてくれた。アルルは、蓮華にとって、光そのものだった。
別れの辛さが、蓮華の心を犯し、蝕んでいく。
「やだよ……わたし……」
嗚咽が漏れた。一度漏れてしまえば、もう止められなかった。
「大丈夫、大丈夫だよ」
アルルは、椅子に座って泣きじゃくる蓮華の前にそっと屈むと、その震える体を、優しく、しかし力強く抱きしめた。
「大丈夫だから。ゆっくりでいいよ。言ってみて?」
「……明日……ここを、発つんだ」
アルルに促され、蓮華は途切れ途切れに、静かに告げた。
「……うん」
蓮華の頭を優しく撫でながら、アルルは静かに頷いた。
「わたし……アルルと離れたくないよ……」
蓮華は、子供のように本音をぶつけた。
しばらくの沈黙。
「……わたしもだよ」
アルルは蓮華を慰めるように、そっと顔を上げ、涙で濡れた蓮華の唇に、自分の唇を優しく重ねた。
蓮華はアルルを求め、アルルもまた、蓮華を求めた。理性が焼き切れたように、ただ本能のままに、互いを失いたくない一心で、さらに激しく唇を貪り合う。
「……足りないよ、もっと……」
名残惜しく離れた互いの唇の間から、熱を帯びた銀の糸が引く。
それは、二人の切なる想いの証のようだった。
お互いの存在を、深く深く刻み込むかのようにに。
「ねぇ、アルル」
荒い息の中、互いに見つめ合いながら、蓮華は静かに言った。
「……なに、蓮華」
「私と……一緒に、来てほしい」
蓮華は、意を決して、アルルに告げた。
アルルは静かに息を吸うと、そっと目を閉じる。
しばしの沈黙の後、彼女はゆっくりと口を開いた。
「蓮華と出会う前のわたしは……分厚い雲がずっと掛かっているみたいに、毎日が灰色だった。でも、蓮華と出会ってから、色々な旅の話を教えてくれて……わたし、本当に嬉しかったんだ」
思い出を語るアルルの真剣な眼差しに、蓮華は胸がキュンと締め付けられるのを感じた。
「いつか、この地区を離れて、広い世界を旅してみたいって、そう思うようになったの。もし、その夢が叶うなら……その時は、蓮華の隣がいいな」
えへへ、とアルルは頬を薄紅色に染めてはにかんだ。
「それじゃあ……!」
「うん」
アルルはそう言うと、蓮華に深く、深く頭を下げた。
「んー……」と翠は煙管を咥えたまま、頭をかいて少し困ったような顔をした。
「まあ、薄々そんな気はしていたわよ」
ふぅ、と短く紫煙を吐き出す。
「でもまさか、アルルが一緒に来る決断をしたとは、少し意外だったかしらね」
困り顔から一転、翠の顔に、ごく微かだが、穏やかな微笑みが浮かんだように見えた。
「どうして?」
「考えてもみなさい。この地区しか知らない彼女にとって、外の世界は未知そのものなのよ? あなたへの想いは、その恐怖をも超えさせたのかしらね……大した覚悟だわ」
「だったら……」
「ええ、明日の昼頃に出立するわ。アルルにも準備するように伝えてきなさい」
蓮華の胸に、温かいものが込み上げてくる。それは、喜びと、そして新たな旅立ちへの希望だった。
「うん!」
蓮華は弾けるような笑顔で言うと、アルルにその吉報を伝えるため、再び飯屋へと駆け出した。
その足取りは、先ほどとは比べ物にならないほど軽やかだった。