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八 ファンタスティック・ガール

 爺さんに教わった通り、国鉄に乗って伊勢まで出かけたのはいいものの、お鏡さん探しは難航した。女の一人旅が珍しいとはいっても、そこは天下の伊勢神宮である。変わり者もちらほらといるものらしい。


「関西弁の、うるせぇ小娘です」


 伊勢神宮の外宮と内宮の間にずらりと並んだ店の者に訪ねてみたが、皆一様に首を傾げるばかりで「それだけじゃねぇ」と浮かない顔をする。


「色の黒い、目のくりっとした、眉のふてぇ娘で……」


 写真などないから、口で説明するより他ない。店の者の反応は変わらず、私は今更爺さんの頼みをきいてしまった自分を内心呪った。


「見かけたら知らせてくだせぇ。おいらぁ小松屋にいますんで」


 大抵の者は歯切れの悪い返事をして、私の顔をじろじろと見た。若妻に逃げられた亭主にでも見えるのではないか知らんと、内心ひやひやした。自分でも女の尻を追いかけているようで情けないのに、これに奇天烈な誤解が加わるのだと思うと心が曇る。もう伊勢には二度と来られぬ。私は信心深い方ではないから伊勢詣でが金輪際できなくとも一向に構わないのだけれども、赤福は一度くらい食っておきたい。甘味はそれほど好きではないが、土地の名物を外さぬのが、私の数少ない旅の掟だ。

 私は自分を慰めるように、金ぴかの字の躍る黒看板を見た。赤福である。

 伊勢神宮が遠くの川向こうにあるが、見て見ぬふりをした。神社仏閣に参るときに寄り道をしてはならん、帰りにしなさいと、父が口を酸っぱくしていたのを思い出した。用事のついでに神様仏様に詣でるのはけしからんと言うのだ。神仏に頼ろうが故郷で家族が祈ろうが、鉄砲の弾に当たるときは当たる。助かるときは助かるし、命を落とすときは落とすのだ。復員して以来、私はすっかり信心とは無縁の人間になってしまった。むっつりとした父の背中を思い出したが、忘れることにした。とにかく赤福が食いたかった。明日の保障など誰にもないのである。

 緋毛氈(ひもうせん)をかけた長椅子に通されて、私はまず茶をすすった。途端に隣の爺さんが話しかけてきた。お互い男一人では肩身が狭いと言う。わからないわけではないが、私の中では既に決着がついていた。でなければ暖簾(のれん)をくぐったりはしない。今更恥らうこともないのである。

 後ろには米軍兵士がいて、大きな声で何やら繰り返している。ラブがどうのこうのとやかましい。どうやら隣の婦女子を口説いているようだ。鬼畜米英めと戦時中のようなことを言うつもりは全くないが、米兵が婦女子を毒牙にかけようとしているのだと思うと、我等日本男子の畑を荒らされているようで苦いものがこみ上げてくる。

 流行りの日米会話手帳でも買っておけば、もう少し静かに食えと嫌味の一つでも言えたか知らん。件の手帳は大変よく売れたそうだけれども、残念ながら私の手元にはない。

 こっぴどくふられてしまえばいいのだ。大和撫子よ、今だ、いけ、と拳を固めながら、そろそろと後ろを覗き見た。ぎょっとした。米兵に口説かれていたのはお鏡さんだったのである。

 私は咄嗟に、見なかったふりをした。自分でも何故だかはわからない。そうしてお鏡さんを口説く男がいたことに感嘆した。中身を知らないとはいえ、天晴(あっぱ)れな根性である。

 米兵は鼻が高く赤ら顔で、開いた襟元にもじゃもじゃとした毛があった。それほど広くない店で大袈裟に身振り手振りをするものだから、女給は迷惑そうだ。

 困った。お鏡さんに声をかけるタイミングを失くしてしまった。

 お鏡さんは米兵の愛の告白に少しも動じず、黙々と赤福を食っていた。脇に積んだ皿の枚数ときたら、かなりのものだ。一体どれほど食うのだろう。


「もあ、ぷりいず」


 空いたばかりの皿を指差して緋毛氈に置くと、念を押すように指を一本立てる。私は舌を巻いた。日米会話手帳もなしに、いっぱしの英語を話している。そして同時に呆れた。どうやら赤福の勘定は、米兵がもつようだ。下心のある男に食い物をせびるとは、何と危なっかしい娘だろう。米兵はファンタスティック・ガール、と高い声で笑った。どうせろくな意味ではなかろう。大食らいだとか、貞操観念に乏しいとかいう意味だ。

 これからその、ファンタスティック・ガールに話しかけて、連れ戻さなければならない。何とも骨が折れそうな話である。

 どうしたものかと私が思案していると、私と爺さんの席に盆を持った若い娘がやって来た。待ちかねた赤福の到来である。爺さんは七三に整えられた白い頭を前に倒し、背中を丸めた。それから運ばれてきた赤福をぺろりと一口に頬張った。

 私はあっと息を飲んだ。赤福は餅と漉し餡(こしあん)の和菓子で、一息に食うようなものではない。年寄りならば尚のことである。

 案の定、爺さんの身体が前後に激しく揺れた。顔が真っ赤になって、泡をふきそうな勢いで唸っている。突然の出来事に、私は喉をかきむしっている爺さんの両手をつかんだ。慌てていて、自分が何をしているのかわからなくなってしまった。


「何してんの! 吐き出させな!」


 叱咤する声が聞こえて、見事な平手打ちが爺さんの背中に入った。

 お鏡さんだ。さすがの早さである。爺さんは激しくむせるが、餅はまだ出てこない。


「足つかんで、逆さまにして!」


 お鏡さんに従って、夢中でしわがれた脚をつかむと上下に振った。きびきびとした命令に軍隊生活を思い出した。よく上官の命令にゲートルを巻いて走ったものだ。

 ごほっと大きな音がして、爺さんの口から餅が転がり落ちた。

 爺さんはぐったりしながらも、乱れた七三を撫で付けた。そうして店主に勧められた茶を飲んだ。髪に気をやるほどだから、もう安心だろう。私もお鏡さんもほうと息をついた。お鏡さんなどは床に座り込んでいる。くりっとした目がぱちくりした。


「あれ、センセ?」

「……よう」


 米兵は後ろで「おお、ファンタスティック・ガール!」と尚も笑い転げている。

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