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七 老鶴の一声

 結局、危篤患者などいなかったのである。風神も雷神もお地蔵様も健康で、亡くなったのと言えば向かいの爺さんくらいのものだった。

 折を見て神戸に逃げ出したのは、十日ほど経った頃だった。佃煮の鍋を鬱々とかきまぜ続ける生活に嫌気がさしたのだ。口(やかま)しい雷神様はとにかく私に家業の総菜屋を手伝わせ、絵を描く時間を与えなかった。そこに加えて風神さまの嫌味である。散歩と称したスケッチに出かけることもできず、私の気は滅入るばかりだったから、今の独り身の気楽さと言ったら極楽にも匹敵する。きらきら星でも歌ってやりたい心持ちである。

 私は夜行列車に揺られながら、真っ黒い窓の外を見て頬杖をついた。今は甲府の辺りだろうか。星が綺麗である。落ち着きなく流れてゆく街灯より、卵の黄身のような月より、星のささやかな光が優しい。おかげで私は、柄にもなく夢を抱いた。

 神戸に帰ったらひょっとして、仕事の依頼が舞い込んでいるのではないか知らん。過日のストッキングの広告などは、我ながらなかなか良い出来であったように思う。爺さん婆さんは郵便に気付かず踏み付けてしまいそうで心配だが、お鏡さんがいるから安心だ。問題は、急ぎの手紙を勝手に開けそうなところである。お鏡さんは至急とか緊急とか速達といったような言葉に滅法弱い。私は下手をすると急ぎの手紙を一週間も放置するから、お鏡さんがお節介を焼いて鼻息を荒くするのである。

 私のところに来る急ぎの封書にろくなものはない。借金の返済期日を知らせる督促状くらいのものだ。まったく、夢を見る間もない。列車が長いトンネルに入った。真っ黒は真っ暗になって、何も見えなくなってしまった。

 最初こそトンネルを抜けるのを心待ちにしていた私だが、次第に目の前に続く暗闇にくたびれはじめた。車窓に映る自分の顔に見飽きた頃には、気付けばまぶたが落ちていた。

 次に目覚めたときには関西にいた。何本か電車を乗り継いで三宮駅で下りると、私は一直線に山へ続く坂道を上って帰宅した。昼の空に浮かんだ白い月を眺め、山から吹く六甲おろしを肌に受ける。いつも私をからかう親父のいる酒屋や、毎日通う銭湯の前を過ぎる度、たった十日やそこら留守にしただけにも関わらず、懐かしくて堪らない思いに駆られた。町では顔見知りにすれ違った程度で、話し込んだわけでもない。月も風も、どこにいたって感じられるものである。それなのに、門前仲町より郷愁に満ちているように思うのだからどうかしている。

 勾配のゆるい坂をだらだら上ると、愛用の旅行鞄と地面がぶつかって、ごつごつとした感触を手に伝えた。さすがに疲れが出たようだ。

 坂の途中で折れて右へ入る。少し歩くと、爺さんと婆さんの待つ下宿である。門と言うより垣根の切れ間と言ったような入り口を通って、私は鞄を地面に放り投げた。遠くで犬の鳴き声がして薄寒い風が吹くと、垣根の手入れされていないのがやけに目立った。ただいま、と声にしてみたが、誰もいない。雨月物語の浅茅が宿を思い出してはぞっとした。翌朝目覚めてみたら廃墟だったというあれである。


「はれ、そこでいごいてんのん、吾妻君とちゃうか」


 だから下宿先の爺さんに声をかけられたときは、飛び上がるほど驚いた。いつも町に出ていく爺さんに、こんな昼日中から会うなど滅多にないことである。


「ただいま戻りました」


 頭を下げると、爺さんはしわくちゃの口を何度も開け閉めしてから「お父ちゃんはどうやった」ともぞもぞ言った。


「父はとうの昔に亡くなってンです。母の嫌がらせですよ。東京に戻って見合いして落ち着けって」


 爺さんはそれを聞いた瞬間、しわに埋もれた目をくわっと見開いて、はげた頭に血管を浮き上がらせた。今まで好々爺然としていたのが一変する。迂闊だった。爺さんの禁句が東京だったことをすっかり忘れていたのである。


「東京なんてろくな街やないで。吾妻君もこんだけこっちで暮らしよったら、もう戻られへんやろ。君、いくつやっけ。なに、三十? 三十にもなって、親があれこれ口出すことないねん」

「……へぇ」


 関西の人には東京嫌いが多いけれど、爺さんは筋金入りだ。爺さんは大変な野球好きで、千葉の毎日オリオンズが大坂タイガースから大量の選手を引き抜いたことを根に持っていた。その毎日を球界に呼び込んだのは元読売のオーナー、つまり東京者である。これですっかり東京嫌いに拍車がかかってしまった。読売ジャイアンツのオーナーが我が物顔に球界をかきまわすのが我慢ならないとよく吠えている。

 そんな爺さんだから、東京から逃げ出した東京者の私を快く迎え入れてくれた。地元の者も逃げ出すほど居心地の悪い町だと思っているのである。私は実家から逃げて来ただけなのだが、余計なことを言って住まいをなくすのは嫌だったから黙っていた。そうこうするうち、どんどん爺さんの中で誤解が進んで、今や関西に定住するものだと思われている節がある。


「……母は、親にとっちゃ子はいくつでも子だって言うンですけど、子としちゃあ、いつまでもべったりされるなんて、たまったもんじゃねぇですよ」


 爺さんがそうだろうそうだろうと首を縦に振っている間に、私は適当に話を切り上げた。


「家ン中、静かですね。なにかあったんですかい」


 離れは下宿人の私がいないのだから静かなのは当然であるが、母屋まで静かなのはおかしい。きっとお鏡さんが買い物にでも出かけているのだろうと思っていたら、爺さんは驚くようなことを言った。


「ああ、鏡ちゃんな、お伊勢参りに行っとんねん」

「は? 伊勢?」


 私はあんぐりと口をあけた。何がどうして伊勢なのか。


「吾妻君のお父ちゃんの無事をお願いするとか言うとったで。ありゃあ、歳に似合わんで信心深い子やからなぁ。吾妻君がちぃとも連絡してこぉへんから、よっぽど具合が悪いんやと思うて心配したんやろ」


 爺さんの皺に埋もれた目が、にやりと三日月形になるのがわかった。


「娘一人じゃ心配やし、吾妻君、君、迎えに行ったって」


 こうして私は下宿先の爺さんの鶴の一言で、伊勢くんだりまで行く羽目になったのである。

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