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六 風神雷神

 お小言の一つや二つは覚悟しているのである。

 深川から戻った私は、日の暮れた頃に神田に到着した。復員したばかりの頃は焼けた街のあまりの広さに唖然としたものだが、日を追うごとにぽつぽつと建物が増え、今ではそれなりになった。駿河台と淡路町が辛うじて焼け残っているのが殊更無常を感じさせたと、兄が当時の状況を教えてくれたものである。兄は感情の起伏に乏しい男で、徴兵検査で結核を疑われて丙種合格になったときも表情の読めぬ顔で正座していた。母が家計のことで唇を尖らせようが、兄嫁が長男を疎かにするべからずと母にたてつこうが平然と茶を啜っているのである。

 義姉は元は与力の家の三女だから、曾爺様(ひいじいさま)が同心をしていた我が家にとっては上役に当たる。そのせいか、兄嫁はしばしば母と喧嘩をした。おかげで私は大変肩身が狭くなり、赤紙に喜んだ節さえあった。なんとも命知らずな話である。

 あばら家の戸を開けると、大声でやりあっているのが聞こえた。門前仲町ではあれほど時間が流れたのを痛感したというのに、ここばかりはそのままである。懐かしいような情けないような気持ちになって、私は女同士の口喧嘩に負けぬよう、大きな声を張り上げた。


「ただいま」


 言ってからしまったと思った。これでは私の家が神田区鍛冶町町にあると認めたようなものである。一体何の為に神戸まで逃げたのかわからない。内心冷や汗をかいていると、雷のように見事な音で襖が開いた。


「修ちゃん!」


 母である。今年三十を迎えた息子としては、ちゃん付けで呼ばれるのは大層恥ずかしい。後ろに風神様みたいな顔の義姉と、お地蔵様のような兄の顔が見えた。


「おかえり。遅かったわねェ。神戸まできちんと電報が届いたか心配してたんだから。あんた本当に連絡よこさないから困ってたのよぅ。でもよかった。これでお見合いを進められるわねぇ」


 見合いする気は毛の先ほどもないのである。その旨伝えようと口を開いたところで制された。引きずるように居間へ通されている間も、母の口は止まらない。


「練ちゃんにもしものことがあったら、おまいさんが家を継がなきゃなんないんですからね。胸の病気がいつ再発するかわかりゃしないもの」


 まるで兄の結核が確定していたかのような口ぶりである。おかげで兄嫁は大変機嫌の悪い顔になった。気持ちは大変よくわかるが、私を睨むのはお門違いだ。かと言って、ここで「飯を食いたい」などと口にすれば、兄嫁の逆鱗に触れる。腹が減ってたまらないのを我慢して、兄に声をかけた。


「よお兄ちゃん、元気そうだねぇ」

「うん」


 話を逸らしたくとも無口な兄と会話の続くはずもない。隣に兄嫁がいるので尚更である。母は座布団を一発叩くとその上に私を(すわ)らせ、次から次へと写真だの手紙だのを見せた。


「あら、仏様にはご挨拶されませんの?」

「登美子さん、死んだ者にばっかり義理立てしてちゃあ、戦後は生き抜けやしませんよ」


 嫁にちくりとやられようと蛙の面に小便なのが母らしい。まるで風神と雷神の睨みあいである。間に挟まれたこっちは生きた心地がしない。


「修ちゃん、お稲荷さんあるから食べなさい」

「へぇ」


 私は余計なことを口にせず、美味しく稲荷寿司をいただいた。


「お向かいに住んでたお爺ちゃん、この冬に亡くなってねぇ……ほら、ぼけてから日がな一日、軍歌歌ってたでんしょう」

「へえ」


 まともに聞く気はない。ただ目の前の稲荷寿司を味わうのみである。


「修ちゃんたらこんなに痩せちゃって。ちゃんとご飯食べてんでしょうね。ああん、復員してきたときも細っこかったけど、今の方がもっと心配だわ。神戸なんかに食べ物があるのかしら」


 神戸南京町の料理人が聞いたら中華包丁を持って追いかけて来そうな台詞である。私が痩せているのは貧乏なせいで、決して神戸に食い物がないからではない。


「……へぇ」


 一呼吸置いて不快を表したのに、母は気付きもしないだろう。けれど表だって言う勇気もない。一言言えば三言は返ってくるから、余計不快になるだけである。


「あぁそうそう、修ちゃんのお見合い相手は御徒町に住んでた春江ちゃんの娘さんでねぇ、これがまた、春江ちゃんに似て別嬪さんなんだから」

「へぇ」


 その春江ちゃんに会ったことがあるが、美人というより愛嬌のある顔である。娘が別嬪というけれど、期待する気もない。そもそも男性と女性の美的感覚は、大きく違うのである。

 私がのらりくらりと逃げている様子を見て、兄嫁が唇を歪めている。笑いたいのをがんばって堪えているようである。時々唇から息を吹き出す。まさに風神の風袋だ。


「……なのよ。ちょいと修ちゃん、聞いてンでしょうね」

「へぇ」


 何を言われても同じ返事が返ってくるのに少しもめげず、母は踏ん反り返って言った。


「じゃあ嫁をもらって、ここに帰ってきてくれるね」

「いやです」

「三十にもなって聞き分けのない」

「おいらにゃ兄ちゃんみたいな甲斐性はねぇもの」


 母の眉間に見事な皺が寄って、眉が吊りあがる。今にも牙が生えそうである。険しくしていた目をくわっと見開いたかと思うと、次の瞬間大きな雷が降ってきた。


「だからあんたが家業を継げば良いってンでしょう!」


 この剣幕には、さすがの私もすぐに返事ができなかった。雷の後の静けさを埋めたのは、回覧板を届けに来た隣の奥さんだった。母は大変不機嫌であったのに、玄関へ出た途端に人が変わったようにオホホホと笑い声などあげて、すっかり山手のご婦人気取りである。義姉は私をじっとりと睨みつけ、やがてふう、とため息をつくと、兄に向き直った。


「錬太郎さんは毎朝あんなに早く起きてがんばっているのに。お店の為に朝な夕な働いているのに……身体が弱いんだから、せめて家族が支えてくれればいいものを……」


 見事に(しな)を作っているが、今さら取り繕ったところで兄も私も雷様と真っ向からやりあう様子を間近に見ている訳だから、意味がない。

 女は皆こういうものなのだろうか。いくら外見を取り繕っても、中身は風神か雷神なのだろうか。私は大変うんざりした。


「義姉さん、おいらがいたら、この家も狭ぇでしょう。家業は兄ちゃんが継いでくれりゃぁいいンです」

「身体の弱い兄に家業を任せて放蕩三昧だなんて、お気楽なものねぇ」


 もはやこの家で、私の言葉をまともに聞いてくれるのは兄のみである。そんな兄は私に向かって例のお地蔵様のような笑みを浮かべて「うん」と返した。この人も聞いているのかどうか定かでない。私はほとほと実家に嫌気がさした。

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