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五 止まり木

 電車に揺られて東京へ戻ったものの、いざ家に向かおうとすると足が躊躇(ためら)う。途中何度も寄り道してしまったものだから余計である。上野恩賜公園を散策してみたものの、足元に死体がずらりと埋まっている様子など想像してしまった。私は出征していたから知らないが、この辺りは空襲の被害を大層受けたそうである。人類が誕生してから気の遠くなるような年月が経っているはずだから、骨の埋まっていない場所など、もはやどこにもないだろうが、それでも仏さんを踏みつけているようでなんだか申し訳ない。

 寛永寺にお参りをしようか知らん。それとも象でも見にいこうか知らん。兎にも角にも家には帰りたくないのである。不忍池をぶらついては、水鳥にそっぽばかり向かれた。やつらには愛想というものが足りない。私が子供の頃は散々餌を投げてやったのにけしからん。畜生というのは実に薄情なものだ。

 生まれ育った街を歩くうち、吉原で顔見知りになったパンパンの姐さんのことを思い出した。いつまでもできる仕事じゃあないというのが口癖だった姐さんは、一昨年から深川の小料理屋を手伝っている。私が鬼婆から逃げて神戸に行くまでは、何かと懇意にしていた。畜生と違って情に厚い私は一年ぶりに顔を出すことにした。なにがなんでも家には帰りたくないのである。

 吾妻橋一丁目まで歩いて、二十三番の東京都電に乗った。路面電車が来た頃にはもう昼になっていたろうか。小腹が空きはじめたのに気をとられながらも、どうせ小料理屋に行くのだと腹の虫をなだめすかし、うとうとしていた。

 門前仲町について、姐さんの店に向かった。たかが一年、されど一年である。その証拠に小料理屋の周りは私の記憶とは趣を変えていた。妙に背筋を伸ばして料理屋の戸を叩くと、中から「へぇ」と声がした。


「まだ準備中で」


 戸を開けてひょいと縄のれんをくぐると、幸の薄そうな顔が微笑んだ。瓜実顔に垂れ気味の目が乗っており、唇は小さく品が良い。これで鼻さえ小さければ、歌舞伎の女形も裸足で逃げ出す別嬪である。姐さんの鼻は愛嬌と言うには行き過ぎている。小鼻が大きくふくらんでいるばっかりに、鼻の穴までも大きく見えるのだ。


「あら、先生」

「先生は止してくれよ。そんなに大層なもんじゃねぇ」

「そんなら先生もあたしのこと、姐さんって呼ぶのはよしておくれよ」

「姐さんは姐さんじゃねぇか」

「あたしゃ、緋牡丹お龍じゃありませんよぅ」

「そんなこたぁ、一っ言も言ってねぇよ」


 小鼻が大きくて上を向いているとか、穴まで見えるだとか思ったのは勿論口に出さずにおいた。でなければ、すぐにお銚子を用意してくれた姐さんに悪い。姐さんはお鏡さんと違ってたおやかだから、それだけで十分魅力的なのである。

 適当な場所にかけて手酌で呑もうとしたら、着物の袖を押さえながら姐さんが手を伸ばした。こういう所作が目の毒だ。今じゃ巷は洋装だらけなものだから、殊更堪らなく見える。お鏡さんのような小娘には真似できない仕草である。

 軽く会釈して猪口(ちょこ)を上げるとすぐにとろとろと酒が注がれた。今にも零れ落ちそうな酒に唇を寄せて吸い込むと、米の香りが芳しい。これぞ酒の魅力。風情を知る姐さんのお酌もあって、美味さが腹の底にまで染みた。こういう酒は、復員してすぐには味わえなかった。復員して良かった。そうして私は、すっかり実家に帰る気が失せてしまった。


「ああ、家に帰りたくねぇなぁ。木賃宿でいいから、姐さんどっか紹介してくんねぇかな」


 思わず呟いたところで、奥の障子がからりと開いた。おや、人がいたのかと目を向けると、たった今地雷原を走り抜けて来たような強面の男がいた。どうやら姐さんのいい人のようだけれど、随分ご立腹のようである。

 何かまずいことを言ったか知らんと無精髭をなでたが、空きっ腹に酒を呑んだせいで良い具合に酔いはじめていた。理由を考えて謝ろうにも頭がまわらないのだから始末が悪い。強面の怒る理由がこれっぽっちもわからないのである。そうこうしているうち、姐さんが強面に駆け寄ってとりなしてくれたので助かった。私もとんだ野暮天になったものだ。生来その気はあったのだが、どうもいけない。

 とっとと去るのが良かろうと、私はお銚子の底に残った酒に後ろ髪を引かれながらも、金を置いて出た。

 縄のれんをくぐって空を見ると、ちょうど日が傾きかけている。酒だけでは腹がふくれるはずもなく、胃の辺りが鳩のようにくるくる鳴いて難儀した。別の店に入るのには、財布が軽くて心許ない。この界隈から足が遠のいて一年、既にツケで食える店などないし、久しぶりに訪れた店でツケ払いをするほど面の皮も厚くない。背に腹は代えられない。大人しく家に帰ることにした。

 日の暮れた門前仲町を、路面電車に揺られて後にした。私が神戸にいる間も絶えず時間は流れていたのだと、当たり前のことを思い知った。姐さんの店に多めに金を置いて出たのは世話になった礼と、男としての意地のようなものだ。あの店も姐さんも、もう私の止まり木にはならない。

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