四十二 願わくは
くしゃみで目が覚めた。春の陽気につられて縁側に出たら、空があまりに高くて広々としていたものだからつい見入ってしまった。縁側で針仕事をしていた妻の膝に頭を乗せて、二言三言話すうちに眠ってしまったものらしい。繕い終えたらしきシーツが、私の身体にかけてある。
息子二人がきゃっきゃと駆け回る音に顔を上げてみれば、彼らも私と同じようにシーツをかぶっているものだから、叱るに叱れぬ。どう言えばよいものか思案していると「おばけだぞう」と声色を変えて目の前を走り抜けようとした子供達を鏡子が咎めた。今ではすっかり母親だが、彼女と初めて会った十八、九の頃はなんと騒々しい娘だろうと呆れたものだ。二人の息子はどうやら母親似であるらしい。
「お父ちゃん、お母ちゃん、ただいま」
小学校から娘が帰ってきた。私はようやく身体を起こして「おかえり」と言った。三人の子供達の中で私に似たのは、この一番上の娘だけである。口数が少なく、本ばかり読んでいる。図書館で本を借りると我慢できずに頁をめくってしまう程の本の虫だ。読み始めると生半なことでは止められず、他人の声が全く聞こえなくなる。一度本を読みながら往来を歩いていたところを警官に見つかって、何故だか親の私が叱られた。警官によると、父親が方々でスケッチブックを開いているのが悪影響を及ぼしているというのである。事故を起こした訳でも車に轢かれた訳でもない。締切に追われる辛さも知らぬ癖にこんなことを言われるのは癪だ。母親にまで「危ないから本は家で読め」と口を酸っぱくして言われて萎れていた娘に、そっと二宮尊徳の話をした。鏡子譲りの黒目がちの瞳がぱっと輝いたあの瞬間の笑顔は、今も目に焼きついて離れない。親馬鹿になる男親の気持ちを思い知った。
「もう、姉ちゃん帰って来るん遅いわ」
「遅いわー」
上の息子が唇を尖らせるのを、下の子が間髪入れず真似る。姉は遠慮がちに微笑みながら「ごめん」と蚊の鳴くような声で謝ったが、二人は既に銀玉鉄砲の弾をズボンのポケットに詰め込んでいるから聞いていない。これから花見に行こうというのに物騒な子等だ。そのうちポケットが破れるのではないか知らんと思って見ていたら、末の男の子が突然べそをかき始めた。
「なんでぇ、どうしたい」
「兄ちゃんが僕の弾ぎゅーってしたァ」
見ればポケットの中で粘土弾が崩れている。
「おい正太、お前の弾、分けてやんな」
「いやや、俺がやったんちゃうもん。浩二が自分で崩したんやん」
「もう、また揉めてるん? 喧嘩するんやったら鉄砲取り上げるよ」
台所へ弁当を取りに戻っていた鏡子が戻って、ようやく兄弟の諍いが止んだ。あっという間に争いを収めてしまうのだから母は偉大だ。
羽織を肩に引っ掛けて弁当をぶら提げ、家族五人で坂を上る。徐々に頭の上が華やかになった。足元を覆う花弁の上に寝転ぼうとした浩二の襟首を捕まえて歩くうち、薄桃色の山桜がこれでもかと両腕を広げて咲いているのにぶち当たった。柔らかな日差しが花の隙間から差し込んでいる。絶好の花見日和だ。
「わあ、じゅうたんみたいやねぇ」
公園に入った途端に喜んで駆け出した兄弟は、足元を覆う花弁を集めては投げ、幹の後ろに隠れては銀玉鉄砲を撃ち合っている。
「願はくは、花のもとにて春死なむ……気持ちはわからねぇでもないね」
私の言葉に眉を寄せた妻の髪に、桜の花弁が乗っていた。彼女は鼻でため息などつくけれども、ただの戯言である。彼女とて、深い意味などないことは百も承知だろう。それでも私の死ぬのを聞くと不機嫌になる。求婚の際の約束であるから、不機嫌になるのも道理である。
鏡子の髪に乗った桜を、そっと指でつまんだ。黒目がちな瞳が私を見上げるのが照れ臭くて坂を振り返ると、目まぐるしく変わりつつある神戸の街並と海が見下ろせた。




