四十一 爪
夕食後に福嶋を駅まで見送った帰り、銭湯に向かった。文字通り頭の天辺から爪先までこれ以上ない程丁寧に洗ったが、色々と準備の足りぬことはあるものだ。指の皮や爪と肉の間に染み込んだ墨汁がとれぬ。それはもうひりつく程に洗った。酒の臭いがとれているか鼻をひくつかせているうち、くしゃみが出た。
風邪をひいてはたまらんと湯に浸かれば、右往左往する私をにやつきながら見ていた酒屋の大将や八百屋の親爺が代わる代わるやって来ては背中を叩いていくのだから始末に負えない。身体が温まるや否や、すぐに湯船から飛び出した。
銭湯から戻ると、今度は爪が伸びているのが気になった。それほど長いという訳でもないが、もののはずみで引っかいては可哀相だ。夜に爪を切ると親の死に目に会えぬというが、今宵は母より妻である。今宵でなくとも母より妻である。母屋で爪切りを借りて切るうち、いつの間にやら他の部屋の明かりが消えていた。爺さん婆さんは寝てしまったものらしい。ご丁寧に爪にやすりまでかけてから、私はようやく重い腰を上げた。今何時だろう。長く待たせてはいないか知らん。湯ざめして風邪でもひかせようものなら私の責任だ。
夜闇の中、虫の声に混じって下駄が土を踏む音が響く。離れに向かう足が早くなるのがみっともなくて何度か深く息を吸って吐くが、また自然と足音が早くなる。戸を引いて後ろ手で閉めた。
障子の向こうから差し込む柔らかな灯りが、鏡子の影の縁を滲ませている。下駄を脱ぎながら申し訳程度の玄関へ上がり、障子を開ける。
「悪ぃ、待たせたかい」
布団の枕元にちょこんと正座した鏡子の髪は、すっかり乾いていた。やッぱり待たせたのだと慌てて部屋へ入ったところで、私は呻いた。足の小指を障子の角でぶつけたのである。背中を丸めて必死で声を押し殺している私の耳に、鏡子の噛み殺せぬ笑いが届いた。
「もう、何してんの」
小指の先に爪がぶらさがっている。これからというところなのに血まで垂れ出して、縁起の悪いこと甚だしい。どれだけ勢いよくぶつけたのだと、己に呆れた。
「爪が剥がれた」
「ええ? 大丈夫?」
つつと膝でやってきて私の足元を覗き込む鏡子を抱き寄せて首に顔を埋める。石鹸の匂いと娘らしい甘く優しい匂いがして、思わず瞼を閉じた。
「センセ、爪」
「センセじゃねぇよ馬鹿」
すっかりその気になっている私のことなど置いて、鏡子はぶらさがった小指の爪を引っぱった。肩を抱く力を強くして痛みをやりすごしていると、鏡子は剥がれた爪を掌に乗せた。爪が剥がれて歪になった形を慈しむように、私の足の小指をそっと撫でて、血のついた自分の指の腹を唇に含む。紅を差さぬ唇の間から覗く舌が艶かしく、私は己の内の劣情が一層膨れ上がるのを予感した。首筋に唇で触れるとあっという間に情欲の渦は勢いを増した。波に飲まれる笹舟のように自然な欲望に身を委ねて耳朶を食み、唇の隙間に舌を捻じ込むと、鏡子は顔を僅かに逸らして伏目がちに「消毒」とかすれた声を出した。
「構うもんか」
畳で背を打ち付けぬよう腕に力を篭めると、私の手にひんやりとした鏡子の指が触れた。貪るように指を絡めた私の真下で、鏡子は穏やかに微笑んだ。




