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四十 三々九度

 紋付袴を着るだけで落ち着かなかったが、高砂(たかさご)に座った私は一層挙動不審となり、始終そわそわと物音のする方へ視線をやった。今日のような晴れの日くらいは猫背を改めねばと気を張ったが、結局あちこちに顔を向ける度に背は丸まって、扇子を手元で開けたり閉めたりと落ち着きがなかった。東京から乳飲み子を抱いてやってきた兄嫁が「式は花嫁を見るもんなんだから、誰も修二さんなんて見やしませんよ」と小声でぼやいたのをやり過ごした。見られていようが見られていまいが、私が落ち着かぬことにかわりはない。

 仕事の合間を縫って東京へ向かったが、結婚の話は意外にも歓迎されなかった。二十歳になるかならぬかの娘より、二十代半ばの東京で育った娘がいいと言って、母がろくに話を聞かぬ。「男は皆若い女が良いンだわこのド助平」とまで言われた。亡くなった父と母の間に何があったのかは知らぬが、とばっちりを食った私はいい迷惑である。

 母の言うように東西の違いはあろう。けれども私はそこも含めて鏡子を選んだのだから、今更気にして騒ぐことではない。神戸で鏡子と暮らすのは私なのだから、母が東西の違いに慣れる必要はない。それなのに味噌汁の味が薄いだの、言葉使いが荒っぽくて品がなく聞こえるだの、遠まわしな物言いばかりではっきりしないのが気に食わぬだのと鏡子を突っぱねる。ド助平と言われて怒らなかった私も、これには流石に堪忍袋の緒が切れた。今を逃すようなら一生結婚はしないとへそを曲げた。ここまで来ると子供の喧嘩である。勘当されようが駆け落ちになろうが構わないと私は言ったが、鏡子は頑として頷かなかった。戦争で家族を失った彼女には、自ら家族を捨てるという選択肢が端からないらしかった。

 母親というものは、たとえ嫁が三国一の良妻であったとしても、何かと気に入らぬところを見つけるものらしい。母が選んだ女性と結婚してもそれは同じだと、兄が己のことを振り返って苦笑いした。大変傍迷惑な話である。結局挨拶に行った半月後、兄夫婦に長男が生まれるまで、母は私達の結婚を認めなかった。

 私の左隣に白無垢姿の鏡子が座ると、私は視線を右に固定した。身を清める間も祝詞の間も、左側に視線をやらぬ私を、座敷の奥に座った福嶋がにやにやと眺めている。視線を固定しすぎては確かに不自然だ。神妙な顔をして次に見たのは天井なのだから間抜けとしか言いようがない。三々九度の盃を思わず取り落としそうになって、遂には野次を飛ばされた。

 やがて窮屈な式が終わって、親族や友人が代わる代わる私の元へ酒を注ぎにやってきた。鏡子は女であるから強く酒を勧められることもないが、男の私はそういう訳にはゆかぬ。祝い酒だとはしゃぐ連中の相手をまともにしていたら、酒が過ぎて正体をなくした。いい歳をしてみっともない。気がつけばそのまま日が暮れていた。

 幸いにも頭痛はないし、眠ったおかげで酔いも醒めている。寝癖のついた頭をかきながら障子を開けたら、福嶋が縁側に座って、沈みかけた夕日を眺めていた。


「よう、起きたか」


 皺だらけの紋付袴を引きずって隣であぐらをかいたら、離れの窓をはたきで掃除する鏡子の姿が見えた。


「なんであいつぁ、掃除なんかしてんだい」

「嫁の仕事がうれしくッて仕方ねぇんじゃないかい。ほれ見ろ、満面の笑みだ」

「目ェいいなぁ。おいらぁ顔まで見えねえよ」

「逆光だもの、おいらにだって見えやしないよ。想像だよ」


 感心して損をしたと鼻から息を吐くと、福嶋は途端に下卑な笑いを浮かべて私に耳打ちをした。


「いよいよ今夜だねぇ。酒で駄目になっちゃいないかい」


 なんとなく下品な話をされることは予測がついていたので、しれっと「野暮天」と返してやった。遊びの好きな福嶋にとっては、何よりも堪える言葉であろう。


「酒の勢いに任せる奴の方がよっぽど野暮天だね。酒臭ェ亭主が初めてじゃ、奥方だって可哀相だ」


 まるきり蛙の面に小便である。


「お前、想像してもみろよ。男を知らない柔肌がほんのり赤く染まっていくんだぜ。たまらんだろう。描いてみたかぁないかい」


 どうやら目的はそこにあったらしい。全くもって油断がならない。私は絵描きである前に鏡子の夫だ。裸婦画から新たな生命を育む母体の神秘であるとか、躍動感だとか、あるがままの人間の美しさを感じぬ訳ではないが、妻の裸を衆目に晒すのだと思うと胃の腑がむかむかする。私自身、これまで何人もの裸婦を描いてきたというのに実に勝手なものである。


「馬鹿野郎。誰が描くかい」

「……だよなぁ」


 吐き棄てる私に、福嶋はため息をついた。再びしみったれた怪人二十面相にスケッチブックを持って行かれては困るから、この衝動はひた隠しに隠さねばならぬけれども、記念に一枚描いてみたいという気持ちがあるのも確かである。私は黙して首をかき、今日は必ず銭湯に向かおうと心に決めて、絵描きの自分を頭の隅へと追いやった。

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