三十九 吾妻鏡
私が福嶋に頼んだのは、仕事を増やして欲しいということだった。
結婚には結納もあれば式もあり、とにかく金がかかる。爺さんや婆さんは私が貧乏なのを知っているから今すぐにと急かすことはせぬが、かと言って好意にいつまでも甘えている訳にもいかぬ。できればお鏡さんに婚約の証明となる贈り物の一つでもしたい。つまりはあれがいいこれは嫌だと仕事に関して好き嫌いを言っている場合ではないのである。私は少年向け雑誌の挿絵と漫画を描き始め、毎日頭を悩ませるようになった。
ひと月の過ぎるのは思ったよりも早い。その間に話を考え、編集者と額をつき合わせて侃々諤々の議論をし、構図を決めて絵を書いて、更に送らねばならぬ。なんとも気忙しいこと限りない。本来ならお鏡さんを連れて東京に挨拶に行く頃合だろうに、忙しさにかまけて未だに帰省できずにいる。
例によってその日もいい案が浮かばず、頭をかいて大の字に寝転がっていた。からりと障子が開く音がして、畳の上から横着にも視線をやると、お鏡さんが盆を持って立っていた。
「センセ、また休憩してるん?」
「そのセンセってのはやめろい。婚約者に迄そんな呼び方されたんじゃ、仕事のことが四六時中頭から離れなくって嫌ンなっちまわぁ」
「ほんじゃ修ちゃん」
私の言葉に目をぱちくりさせ、照れるでもなくあっさりと言ったお鏡さんを見ていると、私の方が恥ずかしくなった。東京ではそう呼ばれることもあるが、神戸ではまだ誰にも呼ばれたことがない。お鏡さんは愛らしいし、抱きしめたくもなるし、勿論嬉しくもあるのだけれども、落ち着かなくていけない。
「やッぱりいつものでいいや……」
力なく呻く私を他所に、お鏡さんはずかずかと上がり込んで机の上の漫画の下書きを読み始めた。
しばらく熱中して読んでいたから、私は寝返りを打ってお鏡さんの持ってきたお茶をずるずると啜った。さり気なく己の存在を示してみるのだけれども、お鏡さんと来たら漫画に夢中でまるで気が付かない。
それ程熱中して読んで貰えるとは描き手冥利に尽きる。多少退屈な画面だが案外これでいいのかもしれない。そう思って転がっていると、お鏡さんが私に向き直った。
「なあセンセ、ここな、科白が長ったらしくて読むのしんどい」
なんともバッサリ言ってくれる。
「ほんでな、ここの吃驚するとこ。目だけやなくって、手も一緒に上げるとか、足も一緒にあげて飛び上がるとか、場合によったら髪の毛まで逆立たせるとかしたら、もっと吃驚してる感じが出るんちゃうかな」
お鏡さんは時々こうして私の仕事に口を挟む。私としては喜ばしくないことなのだけれども、いざ聞いてみればこれがなかなか面白い案なのである。
「そりゃちょいとやりすぎだろう。口を開くのが精々なんじゃねぇかな。だっておいら吃驚するときそんな驚き方しねぇもの」
そうかなぁ、とお鏡さんは首を捻っているが、私は後でお鏡さんの提案通りに描いてみるつもりである。負けず嫌いが祟って姑息な手段に出ている訳ではない。実際に描いてみて決めればいいのだ。候補は多い方がいい。
畳の上で転がったまま饅頭に手を伸ばすと、お鏡さんがじっと漫画の表紙を眺めているのに気付いた。
「なんでぇ、また何か良い案でも思いついたかい」
「ううん……そうやなくって、結婚したら吾妻鏡子になるんやなぁと思って」
頬張った饅頭が喉に詰まるかと思った。何を唐突に言い出すのかと訝しげな顔をしたら、お鏡さんが表紙のところに書いてある私の名前を指差した。成る程、私の筆名を見てそんなことを思ったものらしい。
「吾妻鏡みたいでかっこええなぁ」
「馬鹿、お前ェ、吾妻鏡ってなぁどんな本なのか知ってて言ってんのかい」
「馬鹿とちゃうわ。歴史の本やろ?」
歴史の本なのには違いないが、時の執政北条氏によって改竄された歴史書の何処が格好良いのかよくわからない。あれは陰謀と改竄の歴史書であろう。
「人に歴史あり、言うてな。センセにもうちにも、生まれてからこれ迄の歴史があるやろ? それがこう、結婚によって一つに合流するわけや。人の歴史はそうやって続いて来た訳よ。それがまたここでも行われる訳よ。な? めっさ素敵やん?」
何が素敵なものか。乙女の妄想もここ迄来ると可愛らしいのを超えている。たかが名前で何処まで妄想するのであろう。堪らぬ。私は口をへの字に結んで赤面し、仕舞には寝返りを打って顔を伏せた。
「お鏡さん、机の一番上の抽斗に、青い箱が入ってっからちょいと取ってくんねぇかな」
お鏡さんが文句を垂れながら抽斗を開ける様子を背中越しに探って、大きく息をついた。
「序でに開けてくんねぇかな」
「なんよもう、物臭やなぁ」
お鏡さんはきっと膨れッ面をしているのだろうけれども、今顔を直視すれば挙動不審になること請け合いである。つとめて冷静を装いながら、私は箱を開けたであろうお鏡さんに「やる」と言った。
箱の中には鼈甲の簪が入っている。かなり張り込んだが、婚約の品のつもりだから後悔はせぬ。
暫し流れた沈黙が怖くなった。身体を起こしてそっと様子を伺ったら、お鏡さんは簪を胸に抱いて陽だまりの猫の様に目を細くした。そのまま寝転がっている私にそっと顔を近づけると耳元で囁いた。
「……阿呆。また余計なお金使うて」
憎まれ口を叩きながらも私に寄り添うお鏡さんの背に腕を回して、私はそっと「阿呆じゃなくて馬鹿でぇ」と囁き返した。




