三十八 時代錯誤
九月も末に入ってすっかり涼しくなったとはお鏡さんの弁である。「『暑さ寒さも彼岸まで』てよう言うたもんやね」としきりに感心していたけれども、私はずっと部屋の中にいるから未だに秋が来たという実感がわかない。幸い離れは母屋の大きな屋根の影に入るから、じりじりと焼けるような日差しを浴びることは少ない。八月の昼日中ならば多少は蒸すが、夏場は比較的過ごしやすい。福嶋が顔を出したのは、落ち葉の色が変わり始めた十月のことだった。
「よう、久しぶり。まァた篭もってんのかい」
事前に連絡なくふらりと現れるのは毎度のことだ。
「……仕事かえ」
結婚資金の為とは言え、きりきり舞いで仕事をし続けていると心に余裕がなくなる。猫背に拍車がかかり、すっかり眉間に皺が寄って目付きまで悪くなってしまった。すっきりと涼しげな顔と言えば聞こえはいいが、元よりしまりのない顔である。これで多少は男らしく見えるか知らんと思っていたら、お鏡さんに「近所の偏屈な独居老人に似ている」と評されてしまった。悔しいが芸術家など皆似たり寄ったりであろう。
「さっきそこで鏡子ちゃんに会った。栗蒸し羊羹渡しといたぜ。あの子はなんでか急に落ち着いたねぇ。何か伸展があったんだろ、聞かせろぃ」
散々かき回して他人に苦労させた挙句、こんなことを言う。それでもまあ、私とお鏡さんがなんとかかんとか結ばれたのは、福嶋がいたからだと言えぬこともない。認めたくはないが仕方あるまい。
「結婚すんだよ」
「お前とかい?」
私以外の一体誰だというのだ。黙って頷くと、福嶋は小さく笑って六畳の部屋へどっかと上がり込み、足元に散乱していた紙をささっと手で退けた。
「そいつぁめでてぇや。吾妻もやっとこさ重い腰を上げたかい。長かったなぁ。そういや前回もらった灰皿の挿絵、評判よかったぜ。順風満帆ってやつじゃねぇか」
「あんな灰皿で撲殺された日にゃあ、被害者も浮かばれんだろうなぁ」
思わずこぼすと、福島は興味津々といった様子で「どういうこった」と身を乗り出してきた。伊勢で悶々とした夜に描いた絵だと話すと、途端に腹を抱えて笑いだした。
「いたいけな少年達に恥を晒したわけだねぇ。うちの息子に読ませなくてよかった」
げらげらと大きな声で笑うものだから一瞬聞き逃したが、今とんでもないことを言わなかったか。目を剥く私をよそに、福嶋は白い歯を見せて笑っている。
「お前ェ、今息子って言わなかったかい」
「ああ、言ったよ。今年五つになるのがいる」
福嶋に息子がいるとは初耳である。しかも五つということは結構な前にできた子ではないか。
「初耳だよ。一ッ言も聞いちゃいねぇよ。なんでぇ水臭ェ」
「だって吾妻、お前ェは堅ッ苦しいことばかり言ってたじゃねぇか。そんな奴目の前にして、別嬪の嫁と腕白小僧がいますだなんて言えるか? お前が独り身貫いたって死んだ奴ぁ喜びやしねぇんだよ。むしろ戦争で減った人口を増やしてやるくれぇの心意気でなきゃ」
なんともちゃっかりした男だ。口からでまかせが十八番の福島とは言え、まさか妻子がいるなどとは思いもしなかった。このぷらぷらした男に嫁ぐ女がいることが不思議だ。これまでの鬱憤を晴らすかのように、福嶋は立て板に水とばかりに言葉を続けた。
「やっと目が覚めやがったか、この時代錯誤。恥ずかしながら生きて帰って参りましただなんて、生真面目が服着て歩いてるよな奴が言うことだい。こちとら闇市でやりくりして生き延びてんだ、今更そんな殊勝な気持ちは持っちゃいねぇよ。戦争は終わったんだ。だけどよ、不器用な奴ぁごまんといる。折角戦争で生き残って日本に帰ってこられたってのによ。戦友に野垂れ死なれちゃこっちの寝覚めが悪ィんだよ」
合間に相槌を打つ間もなく、怒涛の勢いで続く説教にいちいち頷いた。成る程、これが福嶋の本音であろう。思えば福嶋には迷惑もかけられたが、助けられてもいる。己の生活もあるだろうに有難いことだ。
「お前の戦後はこれからだ。政治だの宗教だの思想だの運動だのにかぶれるなよ。自慢の女房泣かせねぇようにきりきり働きやがれ。お前の次の任務は職場にあンだよ」
加熱して荒っぽくなっていく口調をぼんやりと聞いていると、いつまで経っても終わりそうにない。私はようやく福嶋の独壇場に口を挟んだ。
「そう言うけどよ、女房子供を守る為なら、また銃剣構えンだろ」
「あたぼうよ。こちとら江戸っ子でぇ」
なんとも威勢のいい答えに、胸がすっとした。大事な決め所でしっかり決めるのだから、福嶋が女にもてるのも合点がいく。なんだかんだで頼りがいのある男なのかもしれぬ。
「……粋でいなせな福嶋さんに、ちょいと頼みたいことがあるんだけどよ」
「おう、なんでぇ」
上機嫌になった福嶋に、私は一息ついてから切り出した。