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三十七 小さな下駄

 水平線の(きわ)に浮かんだ船からだろうか、遠くに汽笛の音が聞こえた。白く曇る空のせいか海までどんよりとしていて、大型タンカーの吐き出す煙が、空と海とに溶けていく。


「何か、これだけは守って欲しいとか、そういうこたぁあるかい」


 ようやく向き直った私を恥ずかしそうに見上げながら、お鏡さんは忙しなく視線を右へ左へと移動させた。そうして目を伏せて、ぽつりと言った。


「一日でもええから、うちより長生きしてください」


 その言葉にどれ程の重さがあるのか余人に推し量ることは出来ぬが、痛い程胸を締め付けられた。哀切という言葉がまさにしっくりくる願いだということもわかった。

 父を戦争で亡くし、家族をじゅうたん爆撃で亡くして天涯孤独となったお鏡さんだからこその願いだ。

 それでも私はお鏡さんより十歳ばかり年上だし、順当に行けば私の方が先にお迎えが来る筈である。口先では何とでも言えるが、真っ向から答えるのは大変に難しい。防波堤にぶつかる白波を眺めながら返答を躊躇(ためら)っていると、お鏡さんは「家族に置いて行かれるんはもう嫌や」と切なげに笑った。


「わかった。出来る限り、努力する」


 そう答える(ほか)に何ができるだろう。いずれ爺さんや婆さんを見送らねばならぬことは、お鏡さんとてわかっているだろう。人間であれ動物であれ、生まれたからにはいつか死ぬ。異国の戦場で、故郷を遠く望む海上で、住み慣れた街で、畳の上で、それぞれに死を迎えるのは当然のことだ。いつまで生きていつ死ぬか、余生がどれだけ残っているか分かる者など居はしない。

 承知した上でお鏡さんよりも長生きすると約束するのは無責任だろうか。それでも私に出来ることは、己の言葉が嘘にならぬように生きることだろう。

 細かな雨がお鏡さんの毛糸の上着に乗って、白く輝いて見える。私は毛糸に雨粒が染み込む前に、彼女に傘を差しかけた。風邪でもひかれては困る。防波堤に転がった傘の柄は砂粒にざらついて、掌をざりざりと言わせた。


「あんね……あと、もう一つええですか?」

「おう」


 はにかんで上目遣いで私を見るお鏡さんに頷いた。一つ目の願いが既に叶えられるかどうかわからぬものである。二つ目もさぞかし難しいだろう。少々身構える気持ちはあったが、多少の我儘(わがまま)は笑って許すのが男の度量というものである。


「絵を描くんは、絶対やめんとってください」


 何を言うのかと構えていたものだから、これには拍子抜けした。


「何でぇ、そんなことかい」

「そんなこととちゃいます」


 長生きしろというのも絵を描くというのもお鏡さんの幸せでなく私の幸せであろう。そんなことを願うお鏡さんが愛しくて仕様がない。戦中の生まれは贅沢の仕方を知らぬ。私はずっと絵を描いて気楽に生活してきたものだから、何とも慎ましく映る。もう少し我儘を言っても良いだろうに、それ程私は頼りないだろうか。


「センセのしたいことは、我慢せんとって欲しいんです。うちはおしゃべりやから黙ってついてくことはできひんけど、ちゃんとセンセについてくから。蹴られても泣かされても、センセの行くとこやったらどこにでもついてくから」


 なんといじらしいのだろう! 私の頭は映画の興奮から冷めぬままにぼうっとなってしまった。照れ臭いのもあって言葉が乱暴になるのを止められない。


「馬鹿にすんじゃねぇや。おいらぁ、惚れて一緒んなった女を蹴ったり泣かしたりするような男だと思われてんのかい」

「せやね、センセはそんなことせぇへんね」


 お鏡さんが傘の柄に手を伸ばす。私は手が触れるのが怖くて退いた。背伸びして私に傘を差しかけるお鏡さんの踵で下駄が小気味良い音をたてた。


「周りの人はどう思うか知らんけど、うちは人生で楽しいこともちゃんとあったんよ。せやから、一緒に泣いたり怒ったり笑うたりして下さい。可哀相やから幸せにしたろやなくて、好きやから幸せにしたろて思うてください」


 女が胸に秘めた思いをそう簡単に口にするものではない、はしたないと(たしなめ)めたいのを堪えて首に手をやると、お鏡さんは「あきませんか」と寂しそうに顔を曇らせた。


「いや、近頃の若い娘はえらく積極的だなぁと思ってさ」

「それは今、センセとうち以外おらへんから」


 うつむきがちにそう言ったお鏡さんを見て、ようやく誤解が解けた。『十代の性典』など見たがるから男だと思われていないのかと勘違いしたが、どうやらそういう訳ではなかったようである。誤解が解けたところで説教をしたくなるのにかわりはないけれども、それだけ私がお鏡さんにとって特別だという意味だったらしい。ただでさえ夢見心地なのに、すっかりのぼせ上がってしまった。

 傘が風にあおられて飛びそうになる。私はお鏡さんの手ごと柄を握りしめて、傘の内側に隠れるようにそっと口付けをした。己の内に大きくなり過ぎた熱を唇だけ触れることで逃がそうとしたのだけれども、その温かで柔らかな唇はあまりに甘く、更に深く求めたくなった。

 結婚初夜までは指一本触れぬと誓ったことを忘れていた訳ではない。お鏡さんの両肩に手をあててそっと距離をとると、顔を背けて雨の波止場を後にした。背中の方でお鏡さんの小さな下駄がからころと鳴る音がする。

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