三十六 君の名は
聚楽館の館内が明るくなる頃には、私の鼻はずるずると鳴っていた。映画の主役二人のすれ違いにひどくやきもきした。真知子が意に染まぬ結婚をさせられ、夫の子を孕んだ頃に本当の思い人たる春樹に再会するのを見ていると、運命というやつは残酷である。
同時に春樹に対する怒りもわいた。何故にもっと早く見つけてやらんのだ。この春樹という男はいつでもすることが遅い。真知子に名を聞くのも遅ければ、忠犬よろしく一年後の約束まで待っているというのが更に遅い。恋だの愛だのと遠く離れて思いを馳せたところで、それが相手に伝わる訳でもなかろう。待たずに草の根わけてでも探し出していれば、二人は幸福な結婚をできたやもしれぬ。苦々しく見ていたら、映画の最後で真知子が身投げをしようとする段になって、ようやく春樹がすっ飛んできた。まったくもって腹立たしい。爽やかな顔で綺麗事ばかりぬかしているから、何をするにも後手に回るのである。
何故に真知子はこのような男に焦がれるのであろう。もう少しいい男はいなかったものか。春樹も真知子の身になってみろ。これではあんまり可哀相ではないか。私もお鏡さんに振り回されている身だから殊更身に迫るのだろうか。真知子が不憫でならない。
「センセ」
隣のお鏡さんが鼻紙をくれた。鼻をかんで無防備になったところへすっかり呆れた声が聞こえた。
「何も泣かんでも……」
「泣いてねぇよ、ちょいとばかり洟が垂れてるだけでぇ」
まったく情けないところを見られてしまった。見下げ果てたと軽蔑するでもなく笑ってくれているからまだいいものの、歳上のくせに映画を観て洟をすすっていると見捨てられても文句は言えぬ。人前で涙ぐむというのがそもそも恥ずかしいことであるのに、巷の女性に人気の恋愛映画を見てという理由が更に情けない。
「婆ちゃんの気持ちがようわかるわ」
爺さんは感情の起伏が激しい。婆さんはそれを今のお鏡さんの如く半ば呆れながら見守っている。成る程、夫婦というのは互いの情けないところを時には呆れ、時には苦笑しながら見守ることのできるものであるらしい。映画や小説のように格好をつけたところで寝食を共にするうち、化けの皮が剥がれていく。ならば互いに好き勝手をして、好き勝手なことを言い合う私とお鏡さんは、案外良い夫婦になるのかもしれぬ。
映画館を出ると小雨が降っていた。お鏡さんはすっと傘を出すと頻りに傘の内に入るように勧めたが、私は頑として首を縦に振らなかった。相合傘など顔から火が出る。
そのまま海へ向かったのは、いまだ映画の興奮冷めやらぬ状態であったからやもしれぬ。
小雨そぼ降る海辺は肌寒く、造船所の車が行き来する他は波止場も静かで、私たちの他には誰もいなかった。
「そういや、お鏡さんのおとっつぁんは海軍さんだっけか」
「うん。海軍の大尉さん……やっけな? 階級は忘れてしもたわ」
以前、お鏡さんに南方の海で船と運命を共にしたと聞いている。ならばこの海は、お鏡さんのお父さんの眠る海と繋がっているはずだ。
私は呼吸を整えて、大きく息を吸い込むと腹に力を入れた。映画の春樹のように海に向かって声を張り上げる。
「鈴木大尉! お嬢さんをおいらにくだせぇ!」
勢いに任せて叫んだが、後ろを振り向くのが怖い。私は肩で荒く息をしたまま、ただ波が行き来するのを眺めていたけれども、いつまでもそうしている訳にもいかぬ。恐る恐る後ろを振り返ったら、傘が波止場に転がった。
次の瞬間、背中に温かな重みが乗った。
「阿呆。そういうんは、最初にうちに言わなあかんのとちゃうん」
怒ったような声と共にお鏡さんの両腕が私の胴に絡まった。これではお鏡さんの顔を見ることができぬ。
「でも嬉しい」
両腕に力がこめられる。私は背中に抱きつくお鏡さんの気配を伺いながら、ゆっくりと瞬きをした。雨の雫が額を滑り落ちた。




