三十五 霹靂
無事に切符を払い戻して新開地へ向かった。演芸場やレコード屋は勿論、食堂や温泉までもが軒を連ねている。広い道を昼日中からぷらぷらと皆が歩いている様子を見ては、これは相当なものだと唇を引き結んだ。物珍しくはあるが、田舎者だと言われるのは我慢がならない。あちこち見回したくなるのを堪えて歩いた。新開地は浅草ほどには大きくないが、これほど娯楽が密集していると壮観である。福嶋が娯楽の殿堂と言ったのにも頷ける。
お鏡さんは一際目立つ建物の前で足を止めると、「聚楽館」と指差した。見上げた建物に感嘆の声が漏れそうになるのを飲み込んで、私は小さく頷いた。
看板にそれとなく目をやって演目を確認したところで、思わずこめかみに手をやった。『君の名は』が公開されていたのである。この映画、元はラジオドラマだったはずだ。ラジオで流行った話をもう一度映画でやるというのが気に入らない。そもそも銀幕の佐田啓二にため息をついた後では、隣の私の顔など見劣りすること必至ではないか。女は兎角恋物語が好きなものだ。お鏡さんも見たがるのではないか知らん。なんともまずいときに誘ってしまった。
「『君の名は』でいいかい」
まずいと思ってはいても、映画館まで来て話題作を見ぬというのは不自然だ。平静を装いつつもそう言うと、お鏡さんは眉を八の字にした。
「ええ……うち、別のが見たい」
「どれでえ」
「えっとねぇ……」
遠慮がちにお鏡さんが指さした映画のポスターは『十代の性典』という題だった。
この娘、底なしの馬鹿である。私は硬直したまま赤くなったり青くなったりした。近頃の娘というのはここまで恥じらいのないものだろうか。辺りにいた何人かが、可哀相なものを見るような目で私を遠巻きに眺めている気さえした。
「……婆さんに頼みゃあいいだろ」
「婆ちゃんは腰が悪いから長く座ってんのが嫌やねんて。爺ちゃんは絶対、けしからんって怒るやろ。でも一人で映画見に行ったら不良やん? せやからセンセ、お願い」
酒を一滴も呑んでいないというのに、こめかみがずきずきと痛み出した。男一人でポルノ映画を見るというならまだわからぬでもない。しかし何が悲しくて恋焦がれた娘と性教育の映画など見ねばならんのだ。上官の命令でもない限り、断固として拒否する。そもそも相手が私でなかったらどうするのだろう。あっという間に襲いかかられるのではないか。隙を見せるのはこれと決めた人の前だけにしろと口を酸っぱくして言っているのに、これっぽっちも解っていない。日本女性は清く正しく美しく、貞操観念を守って生きるべきだと言ってもさっぱり理解してくれない。よくぞ今まで無事でいたものだ。
「お前ェはほんっとに馬鹿だ」
心底呆れ果てていると、お鏡さんは私に小さく手招きをした。うんざりした心持ちのまま屈んでやると、耳元でこそっととんでもないことを言った。
「センセやからお願いしてんねんで?」
この娘、今更一体何を言い出すのだろう。映画を見た後に斯様なことをやってみせろとでもいうのだろうか。私は結婚するまで淫らなことはせぬと心に決めているものだから、お鏡さんにどれほど誘われたところで生殺しだ。複雑な顔をした私に向けて、お鏡さんは屈託なく微笑んだ。
「センセにやったら、隙見せてもええやろ?」
つまりは私を男として見ていないということだろうか。人畜無害の腰抜け腑抜けと嘲笑されている様で、男としては非常に傷つく。
幾度となく葛藤を飲み込んできたのがいけなかったのか知らん。私だって男の端くれだから考えぬ訳ではない。鎖骨や手首や腰骨を思う存分なぞり、骨格を堪能する妄想くらいはする。大半はそこいらで不埒だと己を引き留めて我慢するけれども、時には流されることだってある。実際にことに及ばぬだけで、私はそれ程清廉潔白な男ではない。
すぐにでも帰宅して不貞寝したいのを悟られぬよう、殊更に背筋を伸ばして『君の名は』の切符を二枚買い求めた。後ろでお鏡さんが唇を尖らせているが聞く耳など持たぬ。
聚楽館の中に入ると上等な赤いじゅうたんが敷かれていた。一階席に並んで座ると、お鏡さんがあれこれと話しかけてくる。私はもうすっかり口をきく気をなくして、生返事ばかりした。そのうちお鏡さんが何も言わなくなって、館内が暗くなる。銀幕で岸恵子と佐田啓二が手に手をとって空襲から逃げる背景に、ちらほらと東京の街が映り込んでいる。焼夷弾の降る音が雷のように喧しい。眺めるうち、段々と瞼が重くなってきた。昨夜はお鏡さんの嘘のせいで一睡もしていないのだから仕方がない。
頭ががくんと揺れて一瞬目が覚めたとき、お鏡さんのふくれた言葉が届いた。
「眠いんやったら映画になんてこんかったらええのに、うちと違って歳やねんから」
眠いのは一体誰の所為だ。映画に誘ったのは一体誰と一緒に時間を過ごす為だ。恩着せがましく言いたくはないから腹に収めるけれども、さっきからのお鏡さんの仕打ちはあんまりではないか。
この娘と交際しつづけるのは、かなり骨が折れるのではなかろうか。それもこれも歳が離れている所為だ。私は常に大人であることを求められ、お鏡さんは子供であることを許される。眠さに半ば朦朧とした頭で、私は老夫婦に頭を下げたことをうっすらと後悔しはじめていた。




