三十三 聚楽館
朝飯を四人で食っていると、婆さんに「ほんなら下宿はこれからも吾妻はんに貸すっちゅうことでええんかな」と改めて訊かれたので大層面食らった。大根の味噌汁を食っていた箸を止めてつらつらと考えるうち、青ざめた。
これからも下宿に置いて下さいと頼み込んだつもりでいたが、単に「鏡子さんと結婚を前提としてお付き合いさせてください」としか言っていないことに気付いたのである。本末転倒も甚だしい。まるで地に足がついていない。
己の迷走ぶりに内心深くうなだれながらも頷くと、爺さんが私とお鏡さんの間で素早く視線を走らせた。恐らく結婚の話がどうなったのか聞きたいのであろうが、何のことはない、出鼻を挫かれて結婚の「け」の字も口にしていない。そ知らぬふりをして朝食をかっ食らううち、老夫婦はお互いの顔を見合わせて苦笑いをした。知らぬふりをしている所為か、余計に誰とも目を合わせられぬ。私は早々に母屋を辞して駅まで切符の払い戻しに出かけることにした。
そこいらの銭湯にでも行くような格好で垣根を抜けたら、後ろから小気味いい下駄の音がした。爺さんならばもっと豪快な音であるし、婆さんならばそもそも音をたてずに歩く。
「どっか行くん?」
首を傾げて興味津々といった様子のお鏡さんに尋ねられた。
「ああ、ちょいと出かけるよ」
返事してからしまったと思った。台所で折角大事な話をしようとしたのに、けんもほろろに断られたのを思い出したのだ。ちょっとした意趣返しをという心持ちになって、私はわざとらしく懐手を作った。
「ええとこ、ええとこ、しゅうらっかん」
路地裏で子供達が歌っていた節回しを真似ると、お鏡さんの目の色が途端に変わった。
「ええ、聚楽館行くん!」
聚楽館は神戸有数の繁華街、新開地にある劇場だ。ここで映画を見ることは神戸っ子達の憧れで、子供達が挨拶代わりに聚楽館の名を口ずさむのを何度となく聞いた。けれどもその名を初めて私に教えてくれたのは福嶋だったような気がする。
新開地は娯楽店が軒を連ねる繁華街なのだそうだ。繁華街と来れば悪所もある訳で、奴は隣の福原遊郭に足繁く通っていたようである。私も幾度となく誘われたが、金がなくて行ったことはない。今となっては想い人のいる身だから登楼はせぬが、浅草並と聞けば江戸っ子の負けず嫌いの疼くのも道理であろう。
「でもあすこ、進駐軍専用の映画館になっとったんちゃうの?」
「酒屋の大将曰く、最近解放されたんだとさ」
私の言葉にお鏡さんは大きく目を見開いた。将に興味津々と言うべき食いつきの良さに、私は心中で勝利を確信した。聚楽館様様である。我ながらなんとも器が小さい。
「お金あるん?」
田舎の天の川も真っ青だった瞳が翳ると、心配そうに尋ねてくる。私はにやりと笑ってみせた。東京行きの切符を払い戻せば金が手元に戻ってくる。そう言うとお鏡さんは太めの眉を少し寄せて呆れた。
「あっちの人は宵越しの金は持たへんて言うけど、ほんまなんやねぇ」
勝って兜の緒を緩めた私の負けであろう。お鏡さんに経済観念のない男だと思われたのでは求婚にも支障が出る。すごすごと転進を始めた私を、お鏡さんは文鳥の如く小首を傾げて見上げた。
「ええとこ、ええとこ、聚楽館」




