三十二 味噌汁
老夫婦の指摘通り、まずはお鏡さんに話を通すのが筋というものだろう。てんで話にならぬと追い返された私は母屋の廊下をふらふらと夢遊病患者のような足取りで進み、台所へ向かった。私は元より気力に溢れた人間ではないから、老夫婦に接しただけで一日分の気力をすっかり使い果たしてしまった。睡眠不足もある。
台所へ繋がる戸を引くと、熱気と湿気がぬうと流れ込んできた。お鏡さんが忙しなく大根を切ったり玉子焼きをひっくり返したりしている。なんとも鮮やかな手際である。
「なぁ、お鏡さん。ちょいといいかい」
声をかけると鬼軍曹も裸足で逃げ出しそうな顔で睨まれた。子犬でも鼻の頭に皺を寄せて犬歯を剥き出しにすればそれなりに迫力のあるものだ。
「忙しいかい」
「そんなん見たらわかるやろ」
最初は子犬だと思ってやり過ごそうとしたが、どうもそれ程可愛げのあるものではない。どう少なく見積もっても土佐犬の子である。成る程、朝の台所は戦場なのだろう。
「あのな……」
「もう、センセ、さっきから何よ! 後にして!」
声をかけてもつれないこと甚だしい。爺さん婆さんの件といい、今日は出鼻をくじかれてばかりだ。お鏡さんが姿勢よく手元の包丁を振るい、きびきびと動くさまに私の背は丸まって、猫背が一層酷くなった。板の間に座ってまばらに髭の生えた顎を擦る。私はこれ程のんびりしているけれども、お鏡さんは洗い桶から野菜を上げたり、糠床をかき混ぜたりと忙しい。声をかけようにも隙がない。ろくに相手をしてもらえないだろう。
襷をかけた後ろ姿を見つめていると、お鏡さんがちらりと横目で私を見た。見入っているのを悟られたくなくて余所見をしたら、いつの間にやらお鏡さんが私の前に立っている。
「なんでぇ」
「味見」
慌てる私を他所に、お鏡さんは険しい顔のまま味噌汁をよそった皿を差し出した。僅かに触れた手は水を触るせいかすっかり冷たく凍えている。
たとえば味見の後に「この味噌汁を毎日食いたい」と言うのは愛の告白にはならないか知らん。江戸っ子らしく正々堂々真っ向勝負をするつもりだったのに、いざ愛を囁く段になると途端に弱腰になってしまった。異国の人ならいざ知らず、日本男児はそういったものに不向きなのである。福嶋だけは例外だが。
湯気の立ち上る皿に唇をつけた次の瞬間、私は声にならぬ声を上げて呻いた。舌がひりひりと焼け付いて、味噌汁に触れた部分だけが自分のものでないように思えた。おかげで三十路の余裕も伝えるべき言葉も吹っ飛んだ。気のきいた文句の一つも思い浮かばぬ。
「ああ、ああ、センセ、猫舌なん? 無理せんでもよかったのに」
お鏡さんが呆れた顔をしたのも一瞬のこと。後ろで鍋の吹く音がして、慌てて戻っていった。
「……好きだよ」
鍋をかき混ぜていた手が止まって、こちらを振り向く。戦場に戻ったお鏡さんは眉間に皺を寄せて鼻息も荒く、板の間に座ったままの私を見下ろした。
「知ってる」
なんという可愛げのない答えだろう! 冷たい視線を私によこしながら、お鏡さんは確かにそう言った。私の葛藤や懊悩などまるでお構いなしだ。頭に来た私は懐手をして唇をへの字に引き結んだ。
「味噌汁の味が」
「ああ、味噌汁ね」
鍋に向き直ったお鏡さんの横顔がにやりと笑んだ。
私は一生、この娘に勝てる気がしない。惚れた弱みとは将にこういうことを差すのではなかろうか。