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三十一 雄弁は銀

 爺さん婆さんが起き出したのはいつもと同じ六時半だった。障子の向こうの気配を察してあぐらを正座に直したものの、二人が廊下に出てくるまで待つうちに、すっかり足が痺れた。

 障子が開いたのと同時に「おはようございます」と頭を下げると、爺さんは飛び退いて魚の如く目を丸くした。


「なんや、吾妻君か。吃驚させんといてェや」


 後ろで婆さんが布団を畳みながら「昨日はあの後えらいお楽しみやったようで」と言ったものだから、爺さんたら早速目を血走らせて「何いッ」と額に血管を浮き上がらせた。唇も純潔も奪ってはいないけれども、何もしていないと胸を張るのはどうも気が退ける。江戸っ子らしいはっきりした口調で返事出来ればいいのだけれども、残念ながら次男坊として生きてきたせいか生来の気質のせいか、なんと返せばよいのかとんと思いつかなかった。涙を拭いました、指で唇に触れました、抱き締めました、絵を描きましたと正直に告げたところで誰も信用せぬだろう。

 私は爺さんの無言の問いを黙殺し、板の間に額をこすりつけて「鏡子さんと結婚を前提にお付き合いさせていただきたいのです」と切り出した。ポツダム宣言を黙殺したことによって、日本が二発の原爆を投下されたことを忘れていた訳ではない。黙殺という手段が兎角(とかく)誤解されやすいものだということは重々承知しているけれども、何某(なにがし)かの言い訳を用意することができなかったのである。福嶋ならばこの程度のこと、ひょいひょいとやってのけただろう。この十年で初めて福嶋を羨んだ。


「ほんで、鏡子は」


 錦鯉のように禿頭を真っ赤にして口をぱくぱくさせている爺さんを差し置いて、婆さんが淡々と尋ねた。お鏡さんが今何をしているかと聞かれても解らぬが、恐らく朝飯を作っているのではないか。卵を取りに行ったのだからそうだろう。


「飯作ってんじゃねぇですか」


 しれっと答えた私に、婆さんは一瞬呆気にとられ、次に深くため息をついた。しわがれた手を膝の上できちんとそろえる姿は、爺さんと対称的だ。後ろで「嫁入り前の娘に」だとか「近頃の若い子の貞操観念はどうなっとるんや」と爺さんが忙しない。


「あんた、(やかま)しいで。この期に及んで往生際の悪い」

「この期に及んでも何も、おいらぁ嫁入り前の娘に手なんてつけやしませんよ」

「あら、えらい奥手」


 言ってから後悔した。これではまるでお鏡さんに女性としての魅力がまるでないような言い方ではないか。


「がっついたそこいらの若造とは違うんでさあ。大人の余裕って奴で」


 私の軽口に、爺さんが先ほどのぼやきを忘れて両手を挙げる。


「吾妻君、信じとったで!」


 男親とはかくも悲しきものであろうか。私の言葉に一喜一憂する爺さんよりは、婆さんに通した方が話が早い。それでも爺さんの顔は立てねばならぬ。私は爺さんと婆さんを交互に見ながら、有耶無耶になりかけた話をもう一度切り出した。


「そんでまあ、鏡子さんとのお付き合いを認めていただきたいんで」

「あんなぁ、吾妻はん。こういうのは、二人そろって来るもんなんちゃうの? なんで一人で来はったん」


 言われてみればその通りである。大人の余裕が聞いて呆れる。舞い上がってしまって、肝心のことを抜かしている。


「鏡子さんにゃ、まだ話してねぇんです」


 爺さんと婆さんが同時に呆気にとられた。


「アホちゃうか!」


 数瞬の沈黙の後に双方から発せられたその指摘は、まったくもって尤もだ。

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