三十 大きな下駄
年寄りの朝が幾ら早いと言っても、昨夜は皆遅くに寝た。老夫婦はしばらく起きないだろう。とはいえ、真逆昼まで寝ているなんてことはない筈だ。夜が明けるまで廊下で正座して待つことにした。
爺さん婆さんが起きたなら、いの一番に頭を下げ、これからも離れに置いて下さいと頼み込まねばならぬ。男の癖に前言撤回するのは情けないが、お鏡さんの為なら頭など幾らでも下げられる。否、お鏡さんの為ではない。紛れもなく私が神戸にいたいが為に頭を下げるのだ。ひょっとしたら留まる理由を聞かれるかもしれぬ。もしそうならば、お鏡さんと結婚を前提に交際したいのだと説明して、許可を貰わねばなるまい。
嗚呼、たった今、恐ろしく己の考えが飛躍したことに気付いた。何故に私はお鏡さんとの結婚まで視野に入れているのであろう。彼女は何となく肌で感じているようだけれども、私は未だ東京行きを取りやめたことさえ話していないのである。交際してくれと頼んでも頷いてくれるとは限らない。お鏡さんはそそっかしいながら何処か古風な処のある娘だから、恋愛結婚などはしたないと眉を顰めるやもしれぬ。爺さん婆さんにせめてお鏡さんが成人する迄待てと言われる可能性だってある。道理である。これからより一層美しく咲き誇るであろう花を三分咲きで花瓶に活けようというのだから、無粋なこと甚だしい。女友達を伴って甘味を食べたり映画を見たり芝居に出かけたりするにしても、亭主がいるといないのとでは大違いであろう。嗚呼、亭主などと、またもやひどく飛躍した。
私の座る板の間は固く、足の骨がすぐに痛くなった。足が痺れて呻いていたら、縁側に座って私の描いた絵を嬉しそうに見つめていたお鏡さんがけらけらと笑った。わざわざ痺れた足を触りに来るのだから物好きだ。やめろやめないの押し問答の挙句、私は足を崩してあぐらをかいた。
「なんでそんなにかしこまってんの?」
「うるせぇよ。お鏡さんは子供なんだから、とっとと寝やがれ。昼にゃ船漕いで、起きてらんなくなるぞ」
「その子供に懸想したんはどこの男やろォ」
人の気持ちを知って尚あっけらかんと笑うとは、なんたる小悪魔。それでもこの娘との交際を申し込むのだと改めて顔を見つめると照れた。
「……その男を旅館の部屋に連れ込んで勘違いさせたのは、どこのどいつでぇ」
返す言葉も口の中でぼそぼそと歯切れの悪いことこの上ない。三十路にもなってみっともない。背筋を伸ばして襟元を正すと、お鏡さんはすっ呆けて今にも口笛を吹き出しそうな顔をした。突き出した唇を吸ってやろうかこの馬鹿者。私の邪念をさらりとかわして、お鏡さんは縁側に立った。眩しい朝日を小さな身体で遮り、大きく伸びをした。
「じゃっ」
手を振ったお鏡さんになんと返していいものか迷って、結局懐手のまま「おう」と頷いた。沓脱石と下駄のぶつかる甲高い音がした。きっとお鏡さんは、鶏が卵を生んだか調べに行くのだろう。
お鏡さんがざりざりと下駄を引きずって鶏小屋へ向かう。あれではすぐに下駄の歯が減る。下駄が足の大きさに合っていないのではないか知らん。
そこに思い至って、ふと懐手を解いた。あれはひょっとして、私の下駄ではないだろうか。首を伸ばして覗いてみれば、石の上にちょこんとお鏡さんの下駄が残っている。今生の別れでもあるまいに、わざわざ私の下駄を使うなんてよっぽど愛されている。
思わず頬を緩めて、すぐに引き締めた。お鏡さんの下駄は小さいから、私には履けぬ。さてはて、首尾よく老夫婦に挨拶を済ませたなら、私はどうやって離れに戻ればよいのだろう。母屋で朝食を食って行けということだろうか。いつの間にか緩んでいた頬をもう一度引き締めた。




