三 玄人裸足
私はそこいらじゅうに散らばった春画をにらみ続けていた。ストッキングの広告だかなんだかで婦女子の脚を描く仕事が舞い込んだのだが、朴念仁の私はそんなものをろくに見たことがなく、困り果てていたのだ。当初予定していた女優は顔が写らないことを嫌がって逃げ出してしまったらしい。顔が写らないなら、少し短めのスカートだか水着だかを着れば誰でもよさそうだから、女優が逃げ出したのも頷ける。さてこうして私にお鉢が回ってきたわけだが、ストッキングを履いた婦女子の脚がどうなっているかなど、まったく見当がつかない。ふくらはぎのたるみは引き上げられるのかどうか、とんと見当がつかぬ。記憶にあるのはうらぶれた売春宿のパンパンの姐さんの、やぶ蚊に刺された脚だけである。色っぽい版画ならば脚も見えようと集めてみたのだが、どれもこれも春画と言って差し支えなかったり、真っ直ぐ立っているだけの裸婦図だったりするものだから、ほとほと困り果ててしまった。手元に揃えてから気付くのだから、我ながら馬鹿である。
どたどたと騒々しい音がしたので、私は慌てて我に返った。あの足音が誰のものか、ふりむかずともわかる。襖が高い音で鳴って、風の流れが変わったのがわかった。
「センセ、また篭もっとうの」
「なんだえ、騒々しい」
何事もなかったように答えたつもりであったが、私は大変動揺していた。あられもない女たちの版画が、畳の上に所狭しと広げられているのだから当然である。お鏡さんは図々しくも奥にまで上がりこんで、私の隣に滑り込むように正座した。お鏡さんからはいい匂いがした。まさかコロンなどつけているはずもなかろうが、どうにも甘いような匂いがするものだから、私は少し身体を離して居住まいを正した。金木犀だか沈丁花だかの移り香だろうか。否、庭にそんな木があろうはずもない。戦中の食糧難で、糧にならぬ木はあらかた抜いて畑を作ったはずである。
「センセ、旦那はんらとご飯一緒に食べるて言うてたやろ」
今日は昼日中からずっと仕事部屋に篭もっているものだから、老夫婦と飯を食う約束をしていたことをすっかり忘れていた。約束は確か晩飯だったはずだと顔を上げて驚いた。もう辺りが薄暗い。道理でお鏡さんが文句を言うわけだ。
懐や袂に手を入れて懐中時計を探してようやく見つけ、蓋を開けて薄暗い中で文字盤を見るのに目を凝らした。もう少し明かりはないかと顔を上げた途端、例の版画をしげしげと見ているお鏡さんに気付いた。
「返しやがれ」
無理に奪い取ると、手の中でびりっと嫌な音がした。私の耳はお鏡さんが開いた襖の音のためにきんきんしていたはずなのに、しっかりと聞こえた。版画は見事に真ん中から破れてしまった。
「あぁあぁ、大切なもんやったんとちゃいますのん」
お鏡さんときたら恥ずかしがりもせずにそんなことを言う。そのうちうろたえている私の方が馬鹿らしくなってきた。ちぎれた版画を丸め、部屋の隅の屑篭に投げてやる。入り口につかえて脇へ転げた。
「カストリも大変やねぇ」
「ちげぇよ、ストッキングの広告だ。脚のモデルが逃げ出したのだ」
お鏡さんは私の言い訳染みた台詞に何も返そうとしなかった。益々私は居心地が悪くなって、残りの版画も丸めて捨てた。おぼこではないつもりだが、こんなにむきになっては、そう言われても仕様がない。
「ご飯やで」
どうしたものか迷っているうち、お鏡さんはそのまま母屋に向かってしまった。すぐに老夫婦の元に晩飯を食いに出かけたのだが、やっぱり妙に居心地が悪かった。
後日、どうにも顔があわせづらいので仕事部屋に篭もって、声をかけられてもうんともすんとも言わずにいたら、お鏡さんが何か置いていった。春画でないことを祈りながら中を開くと、黒い染みがドンと乗っていた。端には達筆で脚拓、と書いてある。なんとも壊滅的に色気のない女である。チラリズムとは程遠い。笑いや呆れを通り越して、なんだかかわいそうになってしまった。