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二十九 紅差し指

 お鏡さんの唇を指でなぞると血は広がって、じわりと下唇を彩った。

 ふと、初恋を思い出した。好色な男に囲われ、五号さんという渾名をつけられた女は、関西訛りの女だった。けらけらと笑っては、行儀悪く脚をばたつかせた。モン巴里(パリ)の歌を歌い、ラインダンスを踊るように脚を伸ばした。この期に及んで他の女の面影を思い出すのは愚かだろうか。

 それでも外から射し込む光に艶めく唇の赤は、遠い昔に焦がれた人を思い出させた。

 大坂に帰ったという五号さんの消息は知れぬ。他の村へ疎開したかも知れぬし、都市部を狙った大空襲で亡くなった可能性もある。栄養失調で衰弱死したというのもあり得るし、米兵相手の商売で()り手婆をしている姿も想像できる。

 日が昇ってすっかり白く染まった空に気の早い鳥の声が響いたとき、私は妙に得心した。

 復員後の私は、五号さんの面影を追って西を目指したのではないだろうか。

 私は戦争を忌む。けれども同時に、戦争に従事する以外の生き方を忘れてしまった。戦場を駆け、息を殺して銃を構える以外の生き方が絵を描くことだと気付くのに、長い時間を要した。玉音放送が為されても、私の青年時代を深く蝕んだ戦争は消えない。戦争のない世を思い描けと言われても、無知であるが故に戦争と無縁でいられた少年時代まで遡らねばならぬ。

 初恋の女性は、そんな私の少年時代の象徴だったのではあるまいか。西の訛りを懐かしく思い、ふらふらと旅をして神戸に流れ付いた私は、ずっと陰惨な戦争を忘れてしまいたかったのではないか。

 情けなさに目頭の熱くなるのを堪えた。私は己の心からも、ずっと逃げ続けていたのだ。

 お鏡さんの長い睫に乗った涙を拭うと、か細い両肩からふっと力が抜けた。お鏡さんは朝日を浴びた花が開くようにゆっくり微笑んだかと思うと、「ありがとう」と言った。意味を理解できずに目を細めると、「涙」と小さく笑う。

 涙を拭ってやるくらいのことは、誰だってする。礼を言われる程のことではない。礼を言わねばならないのは、私の方だ。壊さぬようにおずおずと腕を回して抱き寄せると、娘特有の甘い匂いがした。私よりわずかに低い体温が心地よかった。

 脈が落ち着くまで、瞼を閉じた。柔らかな髪が頬に触れる。私は体温の等しくなる前に、腕を離した。お鏡さんは私の胸から頭を起こし、矢張(やは)り小さく、清らかに笑った。ほんのり滲むはにかみを見ると、私の頬にも自然と笑みが浮かんだ。


「おいらぁ、その顔が描きてぇや」


 一瞬目を丸くしたお鏡さんがにやりと頬を吊り上げて「モデル代、高いよ」と言う。私はぎこちなく距離を作って、スケッチブックと鉛筆を拾った。


「いくらでぇ」


 壁際に陣取って、背筋を伸ばす。鉛筆を構えて目を(すが)めながら訊くと、お鏡さんがいつものように胸を張った。


「拾萬円より上」

「百萬円かえ?」

「ううん、一千萬よりもっと上」

「そいつぁ、ちょっとした国家予算並だなぁ。かけそば何杯食えるかしらん」


 鉛筆を走らせながらとぼけた私に、お鏡さんはお愛想とばかりに薄く笑った。


「かけそばに、センセの好きなとろろかけたげる。鶏が卵生んだら、卵も乗せたげる」

「豪勢だねぇ」


 太めの眉と、黒目がちの大きな目を描く。笑んで持ち上がった目尻を整え、掌で触れた柔らかさを思い出しながら頬を描く。そうすれば、私の慕う娘が紙の上に出来上がる。


「出来たぜ」


 線のぶれぬ様に止めていた息を一気に吐き出して、声をかけた。膝立ちでいそいそとやってきたお鏡さんは、私の手元を覗き込んで、ふふっとほくそえんだ。


「やッぱり、センセはうちのこと好き過ぎやわ」

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