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二十八 化かし合い

 廊下に差し込む月の光が夜闇に忍び寄る。肩に置かれた私の手に、お鏡さんがそっと己の手を重ねようとする。触れる前に手を退くと、お鏡さんがわずかに目を細めて視線を逸らした。


「足、なんでわかった」


 (まつげ)に乗った涙を拭いながら、お鏡さんが掠れた声で答える。


「そんなん、見てたらわかります。だってセンセ、描くときにうちの足見てたやん。横目で見てるんくらい、うちにも解るわ」


 成る程と、この上なく長いため息が漏れた。私がお鏡さんを見ているように、お鏡さんも私を見ていたのだ。外套のポケットに手を入れると、東京行きの切符が指先に触れた。

 空は刻一刻と白んでいる。やがて夜も明けるだろう。お鏡さんの頬を伝う涙は乾き、私は神戸を去る。時の流れは無情なもので、いつしかお鏡さんは私という人間が下宿にいたことも忘れて、誰かと添い遂げる。それが私の望みであるはずなのに、東京行きの硬い切符を握り潰したくてならない。

 私はポケットから手を抜くと、首に手をやって小さく舌打ちをした。


「そんなら描いてやらぁ」


 偉そうに言ってはみたものの、焦がれた娘を描きたいのは己である。爺さん婆さんの寝起きする隣室の襖を開けて導くと、提げていた旅行鞄からスケッチブックと鉛筆を出した。綿入りの半纏も出して、お鏡さんの肩にかけた。

 目の前にちょこんと正座したお鏡さんは、薄青い夜の中で唇を小さくわななかせる。肩の震えをやり過ごすためか、長く息を吐いてはゆっくりと瞬きをする。

 写生を始めた。別れの切なさに心をを乱すより、お鏡さんの最も愛らしい顔を描きたいと願っている私は、やはり絵描きなのだろう。一つ一つの線を描くうち、絵に専心した。目の前にちょこんと座っているのはお鏡さんではなく、モデルなのだ。

 私の背から射す淡い光は徐々に高く、強くなる。夜が明け切る前に描かねばならぬ。迷いは消え、ただ黙々と目の前の娘を紙に写した。

 ところが顔を描くに至って、私の手は完全に止まってしまった。描けぬのである。手の迷ううちに日は高くなる。焦りは増す。

 それもこれも、噛み殺せない悲しさを溢れさせるお鏡さんが悪い。唇を噛んで目に涙を溜めるせいだ。


「笑いやがれ」


 無茶な命令だと思う。それでもお鏡さんは顔をくしゃくしゃにして懸命に要求に従おうとする。なんという馬鹿な娘。破廉恥な嘘までついて私を引きとめようとした、愚かで愛しい娘。


「もういい、笑うな」


 私の声に、お鏡さんが嗚咽を漏らす。とうとう堪え切れなくなった娘は膝に顔を埋めて薄い肩を震わせ、声を噛み殺す。息を吸う度に身体全体が水揚げされた魚のように小さく跳ねる。


「顔を上げてくんなきゃ、描けねぇよ」


 スケッチブックと鉛筆を放り出して泣き崩れた背に手を伸ばした。触れる前に、お鏡さんは頭を大きく左右に振った。


「センセなんかきらい。きらいや」


 (まこと)の筈があるものか。嘘だと知っているから、もう一度背に手を伸ばす。触れる。もこもことした私の半纏の奥に、あたたかな背のあるのがわかる。


「安心しな。おいらも、嘘つきのお鏡さんなんかきらいだ」


 お鏡さんの背を撫でながら発した私の声は、くぐもっていてどこまでも暗い。


「うちもきらい」


 顔を上げたお鏡さんは私を見据えてきっぱりと言った。


「うちを神戸に置いてくセンセなんかきらい」


 昇りつつある日の元に晒されたのは涙と洟に塗れた小汚い顔だったが、それに一際心が揺れた。濡れた睫の震える影が、しゃっくりの合間の荒い吐息が、噛み締めて切れた唇に乗った赤い血が、私の目を奪う。涙に濡れた頬に触れると、柔らかな皮膚が熱い掌に馴染んだ。

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