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二十七 かちかち山

 爺さんに腕を掴まれたまま母屋の一室に連行された。婆さんが電灯を点けると、ほのかな橙色の光にたちまち羽虫が群がった。

 閻魔様の額に、蚯蚓みみずのように太い血管が浮き上がっている。お鏡さんは名目上は下女であるが、孫娘も同然の扱いを受けているのだから、爺さんの怒りは至極尤もだ。しかしながら私とお鏡さんの関係というものはどう転んでも店子と大家の下女でしかなく、誤解なのだから仕方がない。それでも女が何かあったと言い張れば、本当に何かあったことになるのである。男というのは実に損な生き物であると言わざるを得ない。言い訳するなと一喝され、ならば一体どうやって説明すればよいのだと途方に暮れた。助け舟を出してくれたのは婆さんであった。


「あんた、若い二人が深い仲になるかもしれんと見越した上で、吾妻はんを伊勢に行かしたんとちゃうのん」


 なんと助け舟も泥舟であった。太宰治の『お伽草子』のかちかち山の話を思い出して、一層気が滅入った。十代の愛らしい兎に恋焦がれた中年の狸は、哀れ泥舟に乗せられて身を滅ぼすのである。なんとも今の私の境遇と似通ってはいまいか。泥舟を漕ぎて海半ば、岸辺に戻るには時既に遅く、沈むのを待つよりない。せめて兎が今わの際に微笑んでくれれば心も安らぐのだが、お鏡さんときたら泣き真似をしたままとっとと逃げた。今は自室で横にでもなっているのか知らん。恨めしい。

 爺さんの説教は延々と続いた。してもいないことをしたと言われるのは堪えられぬが、ひとまず聞かねば落ち着く話も落ち着かぬ。途中から反論を諦めて、ただ座ってうなだれた。元より猫背なのもあって、大層首が疲れた。

 婆さんが茶を淹れてくれたところで、爺さんの説教がようやく一区切りついた。湯のみを両手で包むと、自然とため息が出た。暖かな茶が胸の隅々にまで沁みる。さてはて、一体どう説明すればよいのやら。思案していると、婆さんが口を開いた。


「吾妻はん、あの子の嘘に、そない付き合わんでええで」


 爺さんは茶を吹き、私は正座していた脚を崩した。婆さんよ、そいつはもっと早く言ってくれまいか。なにはともあれ泥舟の下から宝船が潜水艇の如く急浮上した訳である。

 気管に茶が入ってむせ続けている爺さんを横目に、婆さんは皺に埋もれた小さな目で私を見据えた。


「ほいでも、なんで鏡子があんな嘘ついたんか、わかったってくれへんやろか。あの子があんな嘘ついたんは、あんたが行くのを引き止めたかったからや。その一心で、あんな嘘ついたんやで」


 腹が立たぬと言えば嘘になる。それでも年頃の娘があそこまで言うにはよっぽどの覚悟がいるに違いない。私は渋面を作ったまま、婆さんの言葉におずおずと頷いた。続けて爺さんが「すまん」と頭を下げる。男親の気持ちというのは未だ解らぬが、娘に骨抜きにされた親馬鹿には何人か心当たりがある。目に入れても痛くないといった勢いで猫かわいがりし、鵜の目鷹の目で男を寄せ付けぬよう気張った結果、当の娘に嫌われるのだから、男親とは哀れなものだ。


「前もってお鏡さんに言わなかったおいらも悪ィんです。頭ァ上げておくんなせぇ」


 頭を上げるなり、「惜しいなぁ」と(しき)りにぼやき始めた爺さんに、今度は私が頭を下げた。何が惜しいか聞く気はない。爺さんは聞いて欲しいのに違いないが、これ以上神戸に心残りを作るのは御免である。自惚うぬぼれかもしれぬが、宝塚のスタァを見つめる若い乙女のように目を細める爺さんが不気味でならない。閻魔から乙女へ変貌を遂げるとは、なんともせわしない爺さんだ。

 長時間にわたる聴取を経て解放されたときには、空が白みはじめていた。開きっぱなしの雨戸にもたれて空を見上げていたお鏡さんは、私を認めると音もなく立ち上がった。目の縁がしっとりと濡れている。


「あほ。なんでうちの嘘やって、すぐに言わへんの」


 ただ一言交わすだけで、東京への帰還を覆してしまいそうな自分がいた。米軍と戦ったときと同じくらいに、戦況は絶望的だ。ならば転進するよりない。

 私を真っ直ぐに射る瞳をかわして廊下を進むと、背中に声がかかった。


「嘘ついてごめんなさい」


 どうしてお鏡さんはこうも真っ直ぐなのだろう。それに引き換え、私は逃げてばかりの不甲斐ない男だ。足だけ止めて曖昧に頷くのが精々だ。


「今日で最後なんやったら、センセに一つお願いがあるんです」


 願いは聞けぬと首を横に振る。お構いなしに、お鏡さんは声を上げた。


「私を、描いてください」


 想像したのと違う願いに、私の心は少しばかりかしいだ。


「今度は足だけやなくて、全部」


 ぐすっと洟を啜り上げる音に振り返った。視線を逸らさずに私を見上げるお鏡さんが、愛しくてならなかった。内に満ちた熱情は、小さく震える肩に触れると一層増した。

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