二十六 一世一代
銭湯から帰れば、爺さん婆さんやお鏡さんは寝る。私は数少ない荷物をまとめながら、夜が更けるのを待った。もうほとんど出立の準備は済んでいる。愛用の旅行鞄に詰まったあれやこれやを眺めていると、さまざまな思い出が去来する。お鏡さんに見られてくしゃくしゃに丸めたままになっていた春画を、今度こそごみ箱に放り込んだ。お鏡さんの壊滅的に色気のない脚拓は置いていくことにした。
外套を着たまま、がらんどうの部屋をうろうろしたり、窓から母屋の様子を伺ったりするうち、母屋の雨戸がいつまで経っても閉まらぬことに気付いた。閉め忘れたのだろうか。私が去ればこの家は老夫婦と下女の若い娘の三人になるというのに、なんとも無用心ではないか。幸い夜も更けている。出掛けに閉めて行ってやろう。
物音をたてぬように離れの戸を開けると、明かりのすっかり消えた母家に月の光の降り注ぐのが目立った。屋根瓦が黒々と光るのを除けば、青のセロハンを透かして見るように物悲しい。
「どっか行かはるんですか」
声のする方へ目をやると、母屋の縁側に白い人影がたたずんでいた。幽霊かと一瞬肝を冷やした。お鏡さんだった。幽霊の方がまだましだ。
「夜逃げしはりますのん? 借金ですか」
お鏡さんはいつもおさげに編む髪を解き、一つにまとめて左肩に乗せている。
「借金なら、先の少年誌の仕事料で返したぜ。もう督促状も来ねぇよ」
浴衣が白いせいか知らん、お鏡さんは夜の中でひっそりと輝いて見えた。浴衣姿なら伊勢でも見た。あのときはほんの小娘だったが、今は女の色香が漂っている。直視できずに目を逸らした。
「東京へ帰りはるんですか」
「ああ。爺さんと婆さんにゃ、話をつけてあるよ」
お鏡さんと私の距離は縮まらない。すがりついて来られれば袖にする。非難されれば諭して逃げる。しかしお鏡さんは私のすることには何も言わず、ただじっとこちらを見つめている。私の黒い旅装に月の光が染み込むのを待つように雨戸に手を置き、小首を傾げて見つめている。無言の責めほど居心地の悪いものはない。
「鏡子、行かしたり」
間に入ったのは起きだした爺さんと婆さんだった。私は軽く会釈をすると、そのまま無言で背を向けた。垣根の切れ間につくまでがひどく遠く感じられた。
「お元気で、くらい言うたらどうですのん!」
旅行鞄をぶら提げて垣根を越えたときに、お鏡さんがようやく噛み付いた。遅い。既に私は下宿先を出た。半身振り返って今一度会釈する。再び背を向けて進みかけたとき、お鏡さんがとんでもないことを言った。
「責任も取らんで逃げる気ですか!」
これには面食らった。一体何の責任だ。困惑しつつも振り返ると、爺さんが閻魔大王も真っ青の恐ろしげな顔になっている。灯りが月の光しかないために皺の陰影も濃く、余計におどろおどろしい。
「ひどい……センセはうちを傷物にしといて、しれっと逃げる気なんやッ」
わっと顔を覆っていやいやをするお鏡さんを、私は奇異なものを見る目で見ていただろう。驚きのあまり声も出ないというのをはじめて経験した。将にあっけにとられた訳である。
お鏡さんに手を出したことなど断じてない。多少迷ったのは事実だが、実際ことには及ばなかったと、神仏に誓って言える。
「ひどい……伊勢であんな……あんな破廉恥なことしといて、逃げはるんですか!」
破廉恥と来たか! これでは誤解されても仕様がない。科を作って雨戸にもたれかかるお鏡さんは、確かに小娘とは思えなかった。手練手管を駆使する立派な女の仕草だ。戸惑う私の腕を、爺さんがむんずと掴んだ。
「吾妻君、ちょっと話聞かしてもらおか」
「え、いや、だって、そんな」
しどろもどろになった私は助けを求めて婆さんを見た。婆さんならわかってくれるかもしれない。ところがどっこい、婆さんは目を逸らしてすっとぼけている。禿頭に血管を浮き上がらせた爺さんの後ろで、お鏡さんがぺろっと舌を出した。