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二十五 雲間の月

 風呂に浸かって何度目かのため息が、腹の底から押し出された。先程から背を流すことを生業(なりわい)にしている男が、ちらちらとこちらを見ている。洗髪料も流し代も払わずに相当長く風呂に浸かってふやけているのだから、気になるのも無理はない。

 女湯で子供がはしゃぐ声が聞こえて、ばしゃんという水音が続いた。そろそろ人が増える時刻だろう。現に脱衣所の入り口に、手製の水鉄砲を持った男児たちが集まっている。

 意を決して風呂から上がる。一時間半も浸かれば、流石のお鏡さんも帰っただろう。脱衣所の鏡に己の貧相な身体が映っている。背ばかり高く、肩幅はあるもののひょろひょろしていて、肉付きもよくない。それとなく目を逸らした。

 支度を終えて暖簾を潜り、蹴散らかされた履物を片方ずつ見つけ出す。からころと下駄の音も軽やかに外に出たところで思わず首をすくめた。黒々とした洗い髪のお鏡さんが、板塀にもたれて月を見上げている。小刻みに震える肩を、白い手がさすった。見ればどれ程待っていたのか知れるというものだ。途端にかっと腹の底が熱くなって駆け寄った。


「何やってんだい」

「もう……センセ、遅い……」


 ほっとした様子で笑ったお鏡さんに胸が痛んだ。

 馬鹿正直に、この娘は待っていたのだ。散々待たせれば帰るだろうなどと、ろくでもないことを考えた己に無性に腹が立った。

 お鏡さんが湯冷めして震えながら人を待つ程愚かで真っ当な娘だと、私はこれまでずっと気付かなかったとでもいうのだろうか。時々私をからかいはするけれども、基本的には裏表のない馬鹿正直な娘だということを、よく知っていたはずだ。

 私は己に都合のいいようにばかり考えていたことを自覚し、後悔した。八つ当たりを承知で、怒りに任せてお鏡さんの腕を強く引いた。


「もういっぺん、風呂入ってきな」

「ええ? だってセンセ、もう帰るんやろ?」


 お鏡さんがよろめいた拍子に、石鹸が小さく鳴った。


「待っててやるから、早く入ってきやがれ。湯冷めして風邪でもひかれたんじゃ寝覚めが悪ぃや」


 今宵神戸を離れる身であるからこそ、心を以て接すべきではないか。万が一未練が残ったとしても、それは己の問題だ。ならば後悔せぬ方がいい。

 懐ですっかり暖まった小銭を渡して、暖簾をくぐるお鏡さんの後ろ姿を見送った。板塀にもたれて月を見ると、夜の暗さが際立った。

 早く上がって来てくれなくては、今度は私が湯冷めしてしまう。肩から立ち上る湯気が完全に消えるのに、時計の秒針は何週するのか知らん。しかしあの娘はそれをした。私を待っていた。ならば私が湯冷めするくらい、どうということもない。

 もしも私がいつかのように風邪でもひいて、咳のしすぎで気管から血が出たら、お鏡さんは大騒ぎするのだろうか。例のヘンテコなご祈祷をして、麦粥と鰯の焼いたのを持って来てくれるのだろうか。

 とても有難いことだけれども、そうなると今度こそ本当に神戸を去れぬような気がした。神戸での暮らし――否、お鏡さんの居る暮らしは、楽しすぎた。

 月の光が雲間から射す。旅立つのは、今夜しかない。

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