二十四 今宵限り
いつもと同じ一汁一菜に香の物のついた夕飯を済ませた。爺さんは黙々と夕飯をかきこむとラジオの野球中継に没頭し、婆さんは麦飯をゆっくりと噛み締めては味噌汁を飲む。何も知らぬお鏡さんが明るく話しかけてくるのに胸が痛んだ。
「そんでね、酒屋の大将がお酒の木箱を持ち上げたところで鼠が出てきて、吃驚してぎっくり腰になったんやって」
「そいつぁ大変だね」
何食わぬ顔で聞いているつもりだったが、お鏡さんはほんの少し箸を止めて、私の顔をまじまじと見つめた。うわの空だった訳でも、生返事をしたという訳でもない。要領を得ない返事をしたつもりもない。それなのに、いつもとは少し間が違う。老夫婦は流石年の功と言うべきか、いつもと変わらぬ。ただ私だけが動揺している。
「そういや福嶋から郵便が来たよ」
お鏡さんに今夜の出立を悟られては不味い。私は動揺をひた隠して戦友の名を出した。途端にお鏡さんの鼻の頭に皺が寄って、吠え癖のついた犬のような顔になった。散々水饅頭を食った癖に、福嶋の言ったことを根に持っているようだ。
「センセ、まだあんな人と付き合うてんの」
「まあ、仕事持ってきてくれんだし、目くじらたてる程のもんじゃねぇさ」
少年誌に掲載される絵は、伊勢で描いた唐草模様の灰皿の絵であった。人生なんてこういうものだ。嫌だと思ったことが現実になる。一か八かの勝負で勝ったためしがない。
最初は矢っ張りという思いと、福嶋めという思いの狭間で腹も立ったが、隣の文章を読んで納得した。捨てられそうになった愛人が嫉妬に狂い、男の頭を灰皿でかち割る話だ。なるほど、よくよく見ると灰皿の絵に滲む高揚と負の感情が、殺気のように感じられて面白い。実際は殺気など微塵もないのを知っているだけにおかしさがこみあげる。これは鉛筆描きの絵を印刷用に墨でなぞった者の腕か知らん。それとも編集者の選択の妙と言えば良いのか知らん。
「せやかて、福嶋さんと一緒におったら揉め事に巻き込まれそうな気がするんやもん」
お鏡さんは憤懣やるかたないといった様子で鼻息を荒くし、頬を膨らませ、拳を固める。
普段ならちんくしゃだの子狸だのとからかうところだが、今日の私はしんみりしてしまった。この姿を見るのもこれきりである。国定忠治が別れた母を思い出すが如く、瞼を閉じれば十八、九の小娘の姿が浮かぶ。重症だ。
赤城の山も今宵限りと言い残して、あてのない旅をする自信がなくなって来た。そんな私がお鏡さんへ上手く別れを告げられるはずもない。結局何も告げることができなかった。追いすがられるのが恐いというより、お鏡さんの顔を曇らせるのが厭だった。
日が落ちて急に忍び寄ってきた肌寒さに背を丸めた。銭湯に向かう私の後ろで、小気味良い下駄の音が駆けて来る。
「センセェ」
馬鹿者、一体どこまでついてくるのだ。まったく気の休まる暇がない。今日は平静を装い過ぎてすっかり疲れた。銭湯にまでついて来られたのではたまらない。
「なんでぇ」
「最近日が落ちるんが早くなってきたから、ついてっていい?」
お鏡さんなりに貞操観念について考えたようではあるが、危機感がないのには変わりない。私だって男の端くれである。
「馬鹿野郎。おいらぁお前ェの亭主じゃねぇぞ」
「誰が亭主やねん。うちとセンセじゃ年齢があわんやろ。センセは私のお目付け役やんか」
睨みを利かせたつもりが、即座に切り返された。さすが西の女である。
「そいじゃあなんだい、お鏡さんはどっかのご令嬢かい」
「そ。さる華族のご令嬢。世が世なら姫と呼ばれるご身分やで」
「ほお、そんじゃおいら、口も聞かねぇでははあ、と頭を下げなきゃなんねぇ訳だ」
金物屋や酒屋から漏れるほのかな光が、足元に伸びた建物の影を長くする。早足で進むたび、砂埃が立った。ろくに振り返らずにずかずかと大股で銭湯に向かう私に、お鏡さんが小走りでまとわりつく。
「苦しゅうない、面をあげい」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ」
「うっわ、端っから信じてへん!」
「あッたりめぇだろ。そんな与太、一体誰が信じるってんだい」
くだらないやりとりをするうちに、銭湯についてしまった。これでは相手の思う壺ではないか。出不精の私は銭湯脇の板塀に寄りかかり、肩で息をした。
「ああ、ああ、無理しはるから。それにしても若さがないわぁ。センセ、年齢鯖読んでんちゃう?」
「うるせぇ。とっとと入りやがれ」
ろくに顔も見ずに追い払うと、「ほな、お先に」と上機嫌で鼻歌まで歌い出す。下駄を脱いで暖簾の向こうに消えるお鏡さんの後ろ姿を見て、帰りは絶対に一緒に帰ってやらんと決意を新たにした。
ならばカラスの行水か、長風呂をしてやればいい。幸いにして、こちとら江戸っ子である。長風呂ならお手のものだ。
下駄を脱いで番台で金を払うと、肩に手拭をぱしっと打ちつけた。
まったく我ながら大人げない。