二十三 老眼鏡
日が暮れて夜が来て、また日が昇る。恐らく生きとし生ける者の誰もがその繰り返しの中で暮らしているのだろうが、私はそれを諾々と受け入れることが出来ない。
私に似合う死にざまは野垂れ死に以外にない。ならば女房子供はおろか、情を通じた恋人や友人なども持たぬ方が人を悲しませずに済む。似たような境遇の戦友ならばお互い納得した上で付き合うこともできるだろうが、それにしたっていつお迎えが来ても良い様に身辺を整理しておくに越したことはない。だから伝える訳にはいかない。
お鏡さんは私の描いた絵を抱いて、それは嬉しそうに笑った。
「センセはうちのこと好き過ぎやわ」
見破られたと思った。鉛筆を回していた手を止めた。私が何も返事をしないものだから、お鏡さんは不思議そうに首を傾げて「どしたん? 調子悪いん?」とごく自然に聞いてくる。これと言って恥らう様子もない。
お鏡さんの言葉の意味を図りかねた。どこまで本気であるのか、私には判別できぬ。しかしながらその様な冗談を口に出来る程には、お鏡さんの心は私に向いているのではないか。自惚れで済むなら良いが、特別の好意を抱かれているのであれば、傷つける前に終わらせるに越したことはない。
ある夕刻、私はお鏡さんが夕飯の支度に忙しいのを確かめてから、大家の老夫婦を訪ねた。
「ちょいといいですかい」
畳に座していざ老夫婦を目の前にすると躊躇う。爺さんが鼻にぶら下がった老眼鏡の隙間からじろりと私を睨んだ。他人の顔色を伺って暮らしてきた部屋住みの次男坊の癖は抜けず、私は内心たじろいだ。幸い長身で肩幅もあるから、傍目にはわからない。けれども続く言葉が見つからない。己の胆力のなさに呆れること頻りである。
ならばと私は頭を深く垂れ、老夫婦の顔を見ずに先だって考えていた科白を口にした。
「東京に帰ろうと思ってンです」
「ここ、引き払うんか。言うたら悪いけど、絵描きなんてなかなか部屋貸してもらわれへんで。こんな条件のええとこ、出て行くんか」
「面目ねぇ。ここまで散々っぱら世話んなったのに何のお返しもできねぇままなのは、おいらも心苦しいです」
爺さんがため息をついて、新聞を畳む。
「顔、上げなはれ」
婆さんは淡々とそう言った。きっと奥で針仕事を続けているのだろう。婆さんは身体こそ小さいが、爺さんと喧嘩をするとき以外は泰然としている。私のことも見抜かれているのに違いない。
「顔向けできやせん」
「ええから、顔上げなはれ。最後の挨拶に来はったんやったら尚更、顔くらいちゃんと見せぇな」
おずおずと頭を上げると、爺さんはくちゃくちゃと口元を歪めながら老眼鏡を外した。机に置いた老眼鏡のレンズに、窓から差し込む夕日が反射して、白く小さく輝いた。
「いつ行くんや」
「早ければ、今夜にでも」
後に続く沈黙は、無言の責めであった。責められるのは当然のことだ。私は静かに息を吐いて、老夫婦の言葉を待った。
爺さんは老眼鏡をかけて畳んだ新聞をもう一度広げると、小さく「親不孝者」とこぼした。それきり口をきいてはくれなかった。
「夕飯は母屋にいらっしゃい」
婆さんはそう言って、玉結びの済んだ糸を、糸切り歯でぷつんと切った。
老夫婦の言葉でそれぞれの思いを知って胸が詰まったが、お鏡さんと完全に情を通じる前に去らねばならない。今更神戸に留まる訳にもいかぬ。
私はもう一度深々と頭を下げて、老夫婦の部屋を後にした。




