二十二 蓼食う虫
「ありがとう」
ひとしきり笑った後、お鏡さんがはにかんでそんなことを言った。礼を言われる筋合いはない。目を細くして何事かと促すと、お鏡さんは肩を小さく狭めて恥らった。
「あんね……伊勢の話したら、婆ちゃんに叱られたん。センセにちゃんとお礼言えって。伊勢まで迎えに行ってくれたんやでって」
「そんならおいらだって爺さんに叱られたぜ。気にすんな」
お鏡さんが丸い目で私を見上げて、すくめた肩を震わせて笑う。
なるほど、婆さんは私の伊勢での葛藤をわかってくれたのかもしれない。しかしそれは、あの灰皿の絵を見られたのに近い。誤解は解けたが、肩身の狭いこと限りない。
「なぁ、センセはどんな女の子が好き?」
まったくもってとんでもないことを聞く。目の前にいる、放っておけぬほど危機感のない女だとは言えない。しかしここで逃げるのも、三十を迎えた男の面目が潰れそうな気がしてならない。社会の下層で生きる私にも、それなりの誇りというものがある。ここは一つ、三十路の余裕を見せるべきであろう。
「そりゃ、おめぇ、断然踝の綺麗な女だな」
「くるぶしぃ?」
お鏡さんは素っ頓狂な声をあげて、首を捻って頭を悩ませている。落ち着きなく左右に首を傾げる仕草が文鳥を思わせる。
これまで酒の席で何度か踝の綺麗な女が好きだと主張したことがあるが、理解してくれる者はなかなかいなかった。これが鎖骨ならわかると、何度も言われた。鎖骨も良いが、私はやはり踝だ。鎖骨は襟元をはだけねば全貌を拝めぬところが欠点である。
踝の美しい女は骨格も美しいと言うと、変な顔をされるのが落ちだ。踝の上を走る静脈が肌の下に透け、青白く浮き上がるところなど、想像するだけで感嘆のため息が出る。人間の身体の内に秘められた血肉と骨の機能的な造形美と言ったらない。
「どんなんがええの?」
「子供に話したってわかるとは思えねぇなぁ」
頬を膨らませて唸るお鏡さんは将に子供そのものだ。あぐらをかいて顎を撫でていた私の前に、どん、と足を出した。
「それやったら、うちのがええ踝かどうか見てぇや」
こういうところが隙だらけなのだが、言ってもわからぬのだから仕様がない。なにはともあれ、お鏡さんがもんぺを履いていてよかった。着物ならば裾が乱れて大層見苦しいことになる。
お鏡さんは片足立ちでふらふらしている。柱でも掴めばよいものを、案山子のように両手を広げている。私はお鏡さんの手をとって、己の肩に置いた。触れても手を退いて躊躇わぬところは正真正銘子供である。
「そいじゃちょいと拝見」
お鏡さんが身をかがめて私の様子を見下ろす。それでも鼻息は荒いのだから呆れてしまう。右足に手を添えると、柔らかな足の甲は大変肌理が細かく滑らかだった。
「ほれ、爪先を上げると、この骨の出っ張りが目立つだろ。これが踝だ」
爪先をくいと上げると、お鏡さんが身をよじった。くすぐったいらしい。笑いを堪える毎に私の肩に体重が乗って重い。重いと言ったらお鏡さんは怒るだろうが、重いものはどうあっても重いのだ。部屋住みの次男坊の心得で、余計なことは口に出さぬだけのことだ。
「もう、センセ、足の裏触らんといてよ」
足の裏を触らずに踝の良さを説明しろと言われても難しい。私は諦めて手を離した。
「ああ、こそばかった。でもセンセ、どんなんがええ踝なんかわからんまんまやわ」
まだしつこく説明を要求するお鏡さんに、私は絵を描いてやろうと思った。紙と鉛筆を用意すると私がしようとしていることを察したらしく、お鏡さんは大人しく座った。鉛筆をさらさらと動かすと、こちらへ身を乗り出す。食い入るように見つめられると、なんとも描き辛い。
大まかに書いた足の形を、段々と整えていく。ふと、先程見たお鏡さんの足を思い出した。
「どうでぇ、これが綺麗な踝でぇ」
お鏡さんは目を輝かせて興味津々といった様子で黄ばんだ紙を覗き込んだ。
私はその足と踝を、お鏡さんのものに似せて描いた。踝の良し悪しなどどうせ私以外にはわからぬのだから構うことはない。




