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二十一 スケッチブック

 母屋の障子を開けて、爺さん婆さんと食事をした。目の縁の赤いお鏡さんが飯をよそうのを横目で見ては、己を諌める。謝りたい気持ちはあるが、それを口にすると後々面倒なことになりかねない。婆さんはしれっとしているが、爺さんは時折私の顔にじっと見入る。居心地が悪くてならない。

 飯をよそってもらった茶碗を渡されてぎこちなく礼を言うと、お鏡さんは目を伏せて小さく頷いた。らしくない。からかおうとしてやめた。お鏡さんにこんな顔をさせているのは私なのだ。

 給仕を終えたお鏡さんは、ろくに視線も合わさずに台所へと消えた。私はその後姿にちらちらと視線を送りながら、もそもそと飯を食らった。口の中の里芋がはばったくていけない。

 食事を終えたが食った気などしなかった。爺さんの視線が徐々に険しくなるのから逃げるように離れに引き返した。

 今日は本当に疲れた。畳の上に脚を投げ出して座ると、福嶋の残して行った置手紙が目についた。


『吾妻修二のスケッチブックはいただいた――怪人二十面相』


 私は紙切れを適当なところに投げ、千尋せんじんの谷程深いため息をついた。誰が怪人二十面相だ。確かにあちこちから得体の知れぬ仕事を持ち込む辺りは怪人に違いないが、変装する訳でも追われる訳でもあるまいに。大体私のスケッチブックを盗むとは、見る目のない怪人である。美術品専門の怪盗であるなら、それなりに目利きでなくてはならないはずだ。

 しかし一体どのスケッチを持っていったのやら。重い腰を上げてあちこち探すと、なんと伊勢で書いた絵がない。唐草模様の灰皿を描いた件の絵を含むスケッチブックである。これにはすっかり頭を抱えてしまった。


「センセ」


 障子の向こうから声がかかったのに生返事をした。あの灰皿の絵を勝手に持って行かれては困ると、そればかり考えていた。己の恥を晒すことも堪えられないが、あの絵が少年誌に掲載されていたいけな少年達の目に触れるかと思うと気が狂いそうである。いかがわしい絵は焼いて捨てるべきであって、印刷して広く世に出すようなものではない。

 音もなく障子が開いて、不安げな顔が覗き込んだ。私はそのときになって、ようやく声をかけられたのに気付いた。


「……どうしたん?」


 私の困り果てた様子をつぶさに感じ取ったらしく、お鏡さんが身を乗り出す。私は今日の昼のこともあって面食らったが、お鏡さんが神妙な様子で私の前に正座するのでかくかくしかじかと語った。どうやらお鏡さんは昼間のことを丸ごとなかったことにしたようだ。それはそれで悩ましいのだが、針のむしろにいるよりはましだ。ついうっかり、いつものように返してしまった。


「困ったなぁ……ありゃあ、使われちゃ困ンだよ」


 私が酒癖の悪い怪人二十面相に絵を奪われたことを説明すると、お鏡さんは部屋中を漁りはじめた。かつて春画を見られた私に最早見られて困るものなどないが、それにしても人の気持ちを読めない女である。

 次第に私よりも熱心に探しはじめる横顔が愛らしくて、ついつい見入ってしまった。眉を寄せて唇を突き出すのが何とも可愛い。


「センセもちゃんと探しィや!」


 遂には叱られた。長持ちの奥に手を伸ばすお鏡さんの足が伸びて突っ張るのを眺めていた。足首から指の線が大変美しい。足の甲がなだらかな丘のようにぷっくりと盛り上がるのがいい。


「ちょっとセンセ!」

「ああ、さんざ探したけど見つかンねぇもの。持ってかれたんじゃねぇかな。怪人二十面相様に」


 適当に答えた。今度はお鏡さんの頬が膨れる番だ。鼻息を荒くして、大仰に座り直すのを眺めていると面白い。


「センセ、あの福嶋さんて人にはもうちょっと気ィつけた方がええんちゃう?」


 今更気付くお鏡さんは間抜けだ。私がさも当然のような顔をして聞いているものだから、お鏡さんは段々と口ごもっていく。


「さっきも……さっきも、あんなこと、言うてったし……」


 下唇を噛んで頬を赤らめる様に度肝を抜かれた。お鏡さんがこんな顔をするとは思ってもみなかった。伊勢では下衆な勘繰りの果てに多少は恥らえばいいものをと思ったものだが、いざ目の前にすると落ち着かない。拳で隠した口元が思わず引き攣るではないか。急に少女が女という生き物に変化したように感じられた。


「ごめんなさい。センセは悪ゥないのに……福嶋さんが勝手に勘違いしただけやのに……でも、うち、そんな風に見られたことなくって……なんか男の人が汚く思えて、我慢できひんかったんです」


 お鏡さんよ、それは大いなる勘違いだ。しかも汚く思えるとまで言われては否定するにも困るではないか。

 私は固まって、ううとかああとか唸って首を回した。

 清い娘を前にして、あれやこれやと言い訳するのもよくない。私は頭を掻いては唸り、首を捻ってはため息をついて言葉を選んだ。


「……あのな、お鏡さん、福嶋の言ったこたぁ、間違っちゃいねぇよ」


 大きなまん丸の黒目がこちらを向く。これ程無垢な目で見つめられては、私のような人間など汚らわしいと言われても仕方あるまい。


「おいらぁね、一瞬福嶋と同じようなことを考えたよ。じきに間違いだってわかったから何にもしなかったけど、勘違いだって気付かなかったらトンでもねぇことになってたぜ。ああいうことは結婚するまで金輪際しちゃいけねぇ。隙を見せるのはこれと決めた人の前だけにしなせぇ」


 なるほど、兄というのはこういう心持ちかもしれぬ。私は弟の身分だから、こうして説教をくれてやるのは気持ちがいい。


「ごめんなさい……」


 しゅんとしたお鏡さんを前に、大袈裟にへの字口を作って頷いた。お鏡さんが私の顔を見てふと笑う。その様子を見ているとまた、私も頬が緩んで口元が綻ぶ。拳で口元を隠してわざとしかつめらしい顔など作って、もう一度頷いた。

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