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二十 孝行息子

 爺さんが歩いてきたのを呼び止めた。どっこいしょと私の隣に腰をおろした爺さんは、私の用件を聞くよりも早く口を開いた。躊躇ためらった私の負けだ。


「なぁ、吾妻君。あんた今まで、何人も女泣かしてきよったんちゃうか」


 遠まわしに聞かされたお鏡さんの様子に胸が痛んだ。爺さんの怒りはもっともだ。

 できるなら私も、女が悲しむ姿は見たくない。女は目の縁に涙をため、唇を噛みしめて一人の時間が訪れるのを待つ。一人になるや否や泣き伏す。戦場で亭主を亡くした妻たちは皆、辺りをはばかり、声を殺して泣いた。中には戦死公報を頑なに拒んで、再会を夢見て待ち続ける女もいた。戦友の死を伝えに行った先で、涙を堪える女を腐るほど見た。きっと戦死を伝えに行った者のほとんどが見る光景だろう。今思えば、福嶋が亭主を亡くして泣く後家に坊主が手を出すという紙芝居の筋を考えたのも、そんな女たちを見たからのような気がする。


「……泣かしてきたかもしんねぇです」


 ふらふらと全国を渡り歩いて、誰かと情を通じそうになれば姿をくらます。誰にも知らせず、ふらっと旅立つように。これまで幾度となく繰り返して来たことである。素人の娘を傷物になどしないが、思いを残して泣いた娘も、ひょっとしたらいたかもしれぬ。


「もっとひでぇことも、人に言えねぇようなことも、山程してきました。恥ずかしながら生きて帰って参りましたってぇのは、まさにその通りで」


 庭の梅の木の影が、足元へ長く伸びていた。


「ひでぇことすんのが戦争だ、やらなきゃやられんだから仕方ねぇって言われンのは百も承知だ。でも戦争が終わったからって、そう簡単に忘れられるモンでもねぇ」


 山へと帰るカラスが鳴いた。空に二つ三つ、小さな影が踊るように遠ざかっていく。この穏やかさは何物にも変えがたい。


「おいらぁ、ずっと肩身が狭ェんです。こうやって五体満足で生きてンのも、好きな絵を描きながら風来坊を決め込んでんのも申し訳なくってね。……おいらだけ畳の上で死ぬんじゃ、あんまりじゃねぇですかい」


 部屋の中から灯りがもれてくる。爺さんの後頭部がびかぴかしていた。ひょっとしたら、私も髪のなくなるまで生きるのかもしれない。


「吾妻君、親より先に子が死ぬんは、一番の親不孝やで」


 爺さんの喉が小さく震えたのに気付いて、私ははっとした。この屋敷の老夫婦は、息子たちを先の大戦で亡くしているのだ。


「吾妻君は孝行息子や。せやからうちの子ォらに、見せつけたってくれ。生き残ってよかった、今こんだけ好き勝手できる、幸せや、言うて笑うたってくれ。供養(くよう)ちゅうんはな、生き残った人の為のもんや」


 ため息と共に頭の後ろをぺちりとやって、爺さんは肩から力を抜いた。大切なものを失う辛さは、男も女も変わりがない。


「ほいでも幸せになるんが申し訳ないと思うんやったら、あの子らの仏壇に手ェ合わせたってくれ。そんでチャラや。あかんか」


 爺さんは濡れ縁から立ち上がって、「さあ、飯や飯や」と肩を揺らしながら居間に向かった。

 生きている限り、悲しもうと悔やもうと腹は減る。誰かに惚れることも、家庭を築くことも、きっと自然なことなのに違いない。

 濡れ縁の前に下駄を置いて縁側に上がった。見上げた濃紺の空には白い月がかかっている。この美しい色を使って絵を描けたら、どんなに儚く優しい絵になるだろう。どれだけの人が安堵のため息をつき、心を慰められる絵になるだろう。

 やはり私は、絵を捨てることができない。

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