十六 水饅頭
福嶋が一目で良いからお鏡さんを見たいと言い出すのは、自然な成り行きだっただろう。それなら庭に面した障子を開けて待てばいい。何しろ落ち着きのない娘だから、母屋と庭を飛び回っているはずだ。お鏡さんはすぐに現れた。庭を横切るところを捕まえた。
「お鏡さん、ちょいと客が来てんだ。悪いけど茶ぁ持って来てくんねぇかな」
すぐさま「なんで私が」と渋い顔をしたので、福嶋の土産をちらつかせた。水饅頭だ。
「まあ! お呼ばれしてええんかしら」
一応こちらの様子を伺ってはいるが、これが見事な食い付きで食べる気満々である。福嶋が「お姉さんもちょいと休憩して一緒にどうぞ」と言うのに子犬のように目を輝かせ、にっこり笑って見せた。これ程の満面の笑みが見られることはなかなかない。甘味の効果だとはわかっているものの面白くない。
襷がけで纏めたお鏡さんの着物の袖がぴょこぴょこするのを見ていると、むかっ腹が立った。水饅頭の包みを手に、半ば踊りながら庭を駆けていく。伊勢でも思ったが、本当に食い物に弱い女である。
「吾妻、妬くなよ。三十路のすることじゃないぜ」
「うるせぇ」
そんなことは福嶋に言われなくとも百も承知だ。私はぱらぱらとスケッチをめくって適当なページを開くと無理矢理押しつけた。
福嶋は用がないときには来ない。いつもどこからか仕事持ってくる。問題はあまり私の経験したことのない仕事をもってくることだ。
「今度は何を描きゃいいんだい。阪妻か、それとも三船か」
映画の看板描きから紙芝居まで、絵を描く仕事というのはそれこそ山のようにあるが、どれも少しずつ勝手が違う。刺激にはなるが、困ることも多い。今日の用向きも大方の見当は付く。
「そういや吾妻は阪妻に似てるねぇ……名前だけ」
どんな世辞だ。妻の字以外に共通点がないではないか。よほど頼みにくい仕事なのに違いない。
「どうせ描くならおいら、ひばりちゃんがいいな」
追い打ちをかけて覗き込むと福嶋が目を逸らす。一体どんな仕事を持ってきたのだろう。
半ば仕事を断る気でいる私と、どうにかして仕事を請けさせたい福嶋の腹の探り合いが続く。緊張を破ったのは、しずしずと襖を開けたお鏡さんであった。
かつてない所作に驚く私を余所に、福嶋はにやにやと人を食った笑みを浮かべている。
「お茶、お持ちしました」
盆の上の皿で、水饅頭が震えた。