十五 兵隊将棋
「で、結局手ェつけなかったのかい。情けない」
酒好きの戦友、福嶋が神戸を訪れたのは、伊勢から戻って一息ついた頃だった。
お互いいい歳をしてふらふらしているものだから、前に会ったのがいつだったか思い出せないが、この家に越してからは初めてらしい。
「だってありゃ、据え膳じゃねぇもの」
「勿体ない」
将棋盤を前に、福嶋が桂馬を進める。守りに撤するうち、逃げ場を失ってしまった。投了も近そうだが、ひょっとしたら何か手があるかも知れない。とりあえず王将を逃がした。格好は悪いが、この往生際の悪さのおかげで無事内地に帰ってこれたのだ。
「その娘、ひどくチンクシャって訳でもないんだろ?」
「色は黒いけど、目はくりっとしてて可愛いよ」
福嶋は将棋盤から目を上げ、私の顔をしげしげと見つめた。
「吾妻が女の容姿を褒めるのを初めて聞いた」
あんまり馬鹿なことを言う。今のうちに駒をちょろっと移動させてしまおうか知らん。いかさまはならんとわかっていても、尻の座りが悪くて落ち着かない。
「そんなこたぁねぇだろ」
「いやいや、今まで目が食い終わった西瓜の皮みたいだの、鼻が巾着茄子だのと散々言ってきたじゃないか」
いささか誇張が含まれているが、言ったような気もする。なんせ福嶋とは一緒に悪所通いした仲だ。幸い好みが違うのでぶつかったことはないが、どうせ寝るならもうちょっと別嬪を選べばいいのにと何度か呆れた。ところが福嶋に言わせると、私の好みがおかしいのだそうだ。踝の綺麗な女のどこがいけないのだろう。骨の形のいい女は、誰がなんと言おうが美しい。
「あれがいい、これがいいと思ったって、いちいち口にしやしねぇよ。お前と一緒にすんない」
「外国じゃ女に声をかけない方が失礼に当たるらしいぜ」
ちょっと日本が負けたくらいで西洋かぶれになりやがって、と喉まで出掛かったのを堪えた。福嶋は戦中から現地の女といい仲になり、食い物を貰っていた。そのおこぼれに大いに与った私としては、福嶋の人懐っこい性格を責める訳にはいかない。
「馬鹿野郎、ここは日本だ」
「そのうち日本も変わらぁ。俺らの受けた教育と、GHQの教育の違いを見て御覧よ。世の中、善いも悪いもあっという間に変わっちまうんだぜ。誰かがドブさらいをやらなきゃなんねぇなんて、そのうち誰も考えなくならぁ。できれば皆、甘い汁吸いたいもんな」
そんな世になったら、いよいよおしまいだ。福嶋の見通しは悲観的に過ぎる。そう言いたいが、以前「楽観より悲観の方が幾分かマシさ。軍が食糧を現地調達させたのは、楽観的な見通ししか持ってなかったからだぜ」と言い包められたのを思い出して黙っておいた。懐手をしていれば、次の手に悩んでいるように見えるのが将棋のいいところだ。
「はい……王手っと」
あっと叫んだ私に、福嶋は「当てが外れて残念だったなぁ」とからから笑って駒をまとめた。
「ま、わざわざ俺に話すってことは、吾妻もそれなりに期待してたってこった」
意味がわからずにきょとんとした私に、福嶋は黙って小指をたてた。快男子の笑みが途端に下手糞なテルテル坊主のように歪んで、にやりとなった。