十四 白旗
結局後ろを振り向けぬまま、翌朝を迎えた。衣擦れの音と欠伸に続いて声をかけられたとき、なんだか妙に安堵した。宿の主人が詫びに付けてくれた朝飯を食らい、何事もなかったという事実を噛み締めながら支度を整えて伊勢を後にした。
山間を走る為か、汽車が右へ左へと揺れる。これが三十路の徹夜明けには大層効いた。どうにもしゃっきりしない頭が、自然と前方へと垂れていく。何度か舟を漕ぎかけ、その都度腰を浮かせて座り直した。置き引きに遭ったのでは堪らない。
睡魔という奴はお構いなしにやって来る。差し迫って仕方ない。お鏡さんに一声かけて、寝ている間の荷物番を頼もうと顔を上げたその拍子に、かくんと私の肩に頭が乗った。
あれ程布団で熟睡した癖に、お鏡さんたらまた寝ているのである。
半眼のお鏡さんはすぐに頭を戻して「すんません」と言うが、また少ししたら私の肩口に頭を乗せる。仕舞には口が半ばまで開く始末。唇のすき間から艶やかな白い歯が見えて、思わず私は目を逸らした。
これは乙女として恥じらうべきことではないか知らん。とりあえず他の乗客に見られるのは可哀相だ。手拭いを顔の上にかけてやったが、これが下手に葬式を連想させ、この上なく縁起が悪い。
高原を走る夏の汽車は風を取り込んで走る。おかげで肩に頭を乗せられても暑くはない。ただ矢鱈と肩が凝る。人間の頭というのはこれ程重いものだったらしい。
やわらかな風に、手拭いの端が踊った。いつの間にやら手拭がなくなっていたのでは私も困るし、お鏡さんも可哀相だ。飛ばぬよう見張るうち、妻の寝顔を見守る夫のような、穏やかな気持ちがしてきた。因みに寝顔は手拭いで見えない。
私はため息を一つついた。貧しいながらも快適であった神戸での生活に、もうすぐ幕を引かねばならないのだろうと感情的になった。
再び故国の土を踏むことも叶わぬまま、敵の攻撃に木っ端微塵に吹き飛ばされ、あるいは餓死し、あるいは凍死し、あるいは玉砕した、かつての戦友達を置いて私だけが幸せになるのは許されない。今こうして生きて、好きな絵を描きながら日々を暮らし、物を食い、人と話し、あちこち自由に行き来する以上の贅沢を望むのは過ぎている。
許婚や妻のいる者は、待たせた詫びにとっとと子供の三人でも作るといい。しかし私は独り者で、更に好き勝手生きている身だ。妻を持つには、絵を捨てねばならぬ。
肩口にひやりとした気配がして、思案を打ち破られる。手拭をめくって中を覗くと、お鏡さんの口から涎が垂れていた。汚い女である。
けれどもその余りの無邪気さに、背を丸めて忍び笑いをした。
私がどう思おうと、お鏡さんは全てをあっけらかんと冗談にしてしまうだろう。もしもそうしてくれるのであれば、もう少し、神戸にいても許されそうな気がする。